とある街の路地裏に骨董屋『さくら堂』があることを知ったのは、月岡翔太が大学進学のため上京してこの街に住み始めて二年目のことだった。新潟の田舎の出である翔太にとって東京はまるで異世界のような都会であったが、一年で多少は慣れて来たため改めて自分の住む街を散策してみようと思い立ったのである。
元来友人たちと賑やかに休日を過ごすよりも居心地の良い静かなカフェでじっくりと読書に浸る方が好きなタイプで、入り浸れそうなカフェや趣味の良い店を探していた。
最寄りからひとつ隣の駅で降りたのは気まぐれだった。大学一年生の頃は大学と家、アルバイト先のコンビニの三か所を拠点に行動範囲の狭かった翔太だが、二年生になり少し大学生の生活に慣れてきた頃合いで冒険してみたくなったのかもしれない。駅前の商店街を歩き、少し奥まった路地に入ると所謂隠れ家風のカフェであったり小さな雑貨屋が軒を連ねていた。その一角に『さくら堂』は鎮座していたのだった。
古びた木造二階建て。一階が店舗で二階は住居なのだろうと想像できた。軒先には薄汚れた大きな招き猫と間抜けな顔をした狸の置物。入り口を挟んでオリエンタルな趣のある良くわからない陶器の人形がある。木製の引き戸が玄関で、その上部に控えめな木製の看板があり『さくら堂』と筆文字が書かれていた。正直な話、あまりにも入りにくい店である。
窓ガラス越しに店内を覗いてみれば、薄暗い中古そうな調度品や壺などが所狭しと並んでいるのがわかった。そこでようやく骨董を扱う店のようだと合点がいった。
これは一見さんお断りタイプの店かもしれない。そう思い踵を返そうとした翔太の足元でリィンと小さな鈴の音が聞こえた。足元を見れば、白い猫が翔太の脚に頭を押し当ててすりすりと体をこすり付けている。猫が体を揺らすたび、白い体に良く映える赤い首輪についた小さな鈴がリィンと鳴った。
「なんだ、お前。この店の猫か?」
身を屈めた翔太は自分の脚に体を擦り付ける白い猫の頭をそっと撫でる。猫は「ナー」と独特な声で鳴き、翔太を見上げてから『さくら堂』の玄関先を見た。翔太もつられてそちらを見る。
店の玄関ドアには半紙に癖のある筆文字でアルバイト募集と書かれていた。
そんな出会いがあり、翔太がこの『さくら堂』でアルバイトを始めてから一か月が過ぎようとしていた。
木製の引き戸である店の玄関ドアを入ると一番に目に入るのは古く大きな柱時計だった。揺れる振り子がガラス越しに見え、文字盤周りは蝶や鳥の細かい意匠が施されており美しい。七色に輝くように見えるそれらの意匠は螺鈿細工で出来ているのだという。
その周りには大小様々な古めかしい棚やランプ、壺に皿、壁には掛け軸や絵画など東西で分けられることなく雑多に並べられている印象があった。とにかく物が多いのだ。
自前のエプロンをつけた翔太は陶磁器の壺をひとつ持ち上げて中を覗き込み、思い切り眉間にしわを寄せた。
「桜庭さん、また壺の中に埃溜まってるじゃないですか。これじゃあお客さんだって手に取りたくないでしょう」
翔太の不機嫌な声が向かった先は、カウンターテーブルで文庫本を開き優雅にコーヒーカップを口に運んでいる和服姿の男だった。
骨董品店『さくら堂』の店主である桜庭律は緩くウェーブがかった亜麻色の髪を揺らしながら顔を上げて翔太を見る。常に微笑をたたえているような、そんな穏やかな印象を見る者に与えるずいぶんと整った顔立ちをしているが、掃除や身の回りの片づけがまるで出来ない人なのだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
「あーその壺そんなところにあったんだねえ。最近ずっと見ないなーと思ってたんだよ」
「ちょっと……盗難とかに遭ってもわからないんじゃないですか」
「わからないかもねえ」
商売をやる気があるのだろうか。正直繁盛しているとは言い難いこの店の経営がどういう状況にあるのか、一介のアルバイトでしかない翔太には知る由もないがアルバイトを雇うくらいの余裕はあるのだと信じたい。先月分の給料は無事振り込まれていたので翔太にしてみればそれさえ滞らなければ良いのだが。
「まったく、少しは働いてくださいよ」
「ひどいことを言うなあ月岡君は。僕だってね、ちゃんと働いてるんだよ。君の知らないところでね。それに掃除片付けは君の仕事だろう?」
相変わらずののんびりとした口調で失礼なアルバイトの小言を受けながす桜庭は翔太から見れば店のカウンターで本を読んだりコーヒーを飲んだり、時折訪れる客相手に世間話をしているようにしか見えない。ただ彼の言う通り、翔太はこの店に掃除と片付けのアルバイトとして雇われているのでそれを翔太の仕事と言われてしまえば何も言えなかった。翔太が雇われる前はどうしていたのか甚だ疑問ではあるが。
桜庭は再び文庫本に目を落とし読書の続きに戻ってしまった。翔太は仕方なく陶磁器の壺を逆さにして柄が長く伸びるハンディワイパーを無遠慮に突っ込み内部の埃を取ってゆく。この店に置かれている物には値札がついておらず、店の調度品なのか商品であるのか判別がつきにくいのだが、壺の下にはいかにも古めかしい木箱が置かれているのでこの箱に入れて売る商品なのだろう。どれほどの価値のある物なのかわからないため最初は恐々と掃除していたのだが、桜庭は翔太が何に触れようがどう扱おうが全く口を出して来ないので今ではあまり気にしないようになっていた。
ちらり、と今一度文庫本に目を落とす桜庭を横目に見る。身長は翔太より高いので一八〇センチくらいはありそうな長身で比較的やせ型に見える。翔太が知る限り彼は常に着物を着て店に出ており、その着物は無地のものから凝った柄物までずいぶんとたくさんの種類を着こなしているようだった。あまり外に出ないのだろう、少し不健康そうにも見える白い肌にウェーブがかった亜麻色の髪が目に少しかかっており、初対面の時に驚いてしまったほどにまつ毛の長い男だった。俳優にでもなれそうな恵まれた容姿と言えるだろう。この顔で今年三十二だというのだからますます不思議な男だ。
伏せられた長いまつ毛がふんわりと温かく発光するランプに照らされている。まるで絵画か映画のワンシーンのようだなと翔太は思った。
その伏せられた瞼が不意に持ち上がり、暗緑色に見える瞳がぱちりと翔太を捉える。
「月岡君、僕の美貌に見惚れてないでお仕事お仕事」
「ッ……見惚れてません」
自分の顔の良さを理解している男はたちが悪い。図星を指された翔太は誤魔化すために咳ばらいをしながら手にしたハンディワイパーで棚の上の埃に意識を無理やり移動させる。すると、リィンと小さな鈴の音が聞こえた。
「あ、おかえり」
とっとっとっと足音を立てながら店の奥からやってきたのは白い体に赤い首輪の猫だ。初めて出会ったひと月前より一回りも大きく育った気がするが、翔太がついついこの猫を可愛がって餌を色々と持ってきてしまうからかもしれない。
「コバン、お前また太った?」
コバンとはこの猫の名前だ。コバンは飼い主である桜庭の失礼な言葉を完全に無視して一直線に翔太の足元へやってくると、ごつんと脚に頭を押し付けてから金色の瞳で見上げてナーと鳴いた。
「そんな酷い事言うから、嫌われますよ」
「どうせ僕は懐かれて無いからね。月岡君はなんでそんなに懐かれてるの?」
それは俺も知りたい、と翔太は思った。
大学二年生になると教授ごとに変わる授業のやり方にも随分慣れてくる。この教授は出席さえしていれば単位は比較的貰いやすいとか、逆にやたらと大量のレポートを提出させるだとか、高校の頃と違い授業の仕方も様々である。
翔太が文学部を選んだのに特別な理由があったわけではない。ひとまず大学は行っておいた方が良いだろう、どう考えても文系だからとりあえず自分のレベルで行ける一番高い偏差値の文学部にしておくか、程度の気持ちだった。将来何になりたい、という具体的なヴィジョンはまだ見えておらず、漠然とこのまま平穏無事に学生生活を終えていくのだろうと思っている。
この日の授業は午後の一コマを終えれば予定が入っていなかったため、翔太は『さくら堂』のアルバイトを入れていた。『さくら堂』は午前十時から午後六時までの営業時間となっており、不定休の店だ。昨今のアンティークブームで若い客もそこそこ来店しており翔太が接客することも少なくないが、基本的に桜庭は学業を優先して良いと言ってくれているので授業の無い時間にふらりと寄って働くという緩い契約でアルバイトをしている。
店の最寄り駅で電車を降り、駅前の商店街を抜けて一か月ですっかり通い慣れた路地の奥へと入ってゆく。ふわりと漂って来るのは近くのカフェのコーヒーの香りだ。桜庭はそこで焙煎されている豆がお気に入りらしく、翔太も時々飲ませてもらっている。
巨大な招き猫と狸が並んだ店先まで来た時、翔太は思わず首を傾げた。店内に明かりは灯っておらず、店のドアは施錠されていて入ることが出来ないのだ。今日はアルバイトに入ると昨日の帰り際に桜庭に告げていて、その時には今日は休業するとは一言も言っていなかった。
「急な仕事かな……いや、あの人のことだから日頃の不摂生が祟って体調を崩したとか」
翔太がアルバイトとして雇われた際に急に出張が入ることがあるという説明はされていたが、何の連絡も無く店が閉まっているのはこの一か月で一度も無い。むしろちゃんとした食事を摂っているのか甚だ疑問な一回り年上の男のことだ、体調不良で寝込んでいる可能性の方が高い気がする。
翔太は事前に教えられていた桜庭の番号に電話をかけてみることにする。スマートフォンから登録されている番号を呼び出して通話ボタンをタップすれば、少しの時間を置いて桜庭が応答した。
『あ、月岡君か。どうしたの?』
「どうしたのじゃありませんよ、店閉まってるんですけど。今日バイトに行くって言いましたよね俺」
桜庭の声は電子変換されたものとはいえ体調が悪そうには聞こえなかった。少し安心する。だがどうやら彼は外出中らしく、がやがやとした街の喧騒が小さく聞こえていた。
『ああ、そうか……そうだったね。悪いけど、今日は休みにしておいてくれないかな』
「え、でも今日は四時に萬田さんが来るんでしょ? 良いんですか?」
萬田というのは近所に住む『さくら堂』常連の好々爺だ。都内に持ちビルをいくつも所有しているらしく、本人曰く有り余った金で遊んで暮らしているらしい。時折店を訪れ、桜庭に欲しい品を探してくれるよう頼んでいるのだ。翔太も何度かそのやり取りを見ていて、若者と接する機会が無いから嬉しいと言いながら菓子を貰ったりすることがある。
『あ、そうだった。萬田さんに連絡して日をずらして貰うか……いや、でも明日から奥様と旅行って言ってたっけ。うーん……悪いけど月岡君、僕の代わりに話を聞いておいてくれないかな』
「いやいや無茶言わないでくださいよ。俺は骨董の知識なんて何にも無いんですから……あの、何かあったんですか?」
先ほどから桜庭の言葉の歯切れが悪い。普段からゆるゆるふわふわとした人だが、素人の翔太から見ても相当に骨董の知識が豊富な教養人であると言える。このように要領を得ない話し方をする人ではないのだ。
桜庭は少し黙ってから大きなため息をついた。
『実は……昨日の夜からコバンが帰って来て無くて』
「……コバン?」
『そう、猫のコバン』
桜庭が言うには、こういうことであった。
『さくら堂』は一階が店舗で二階が住居というつくりになっている。白猫のコバンは昨日翔太がアルバイトをしている時間に一度外から帰ってきてご飯を食べた後にまた出かけていったが、そのまま今朝になっても帰って来なかったというのだ。桜庭曰く、しょっちゅうふらりと外へ出かけていく猫だが朝まで帰って来ないのは初めてらしい。
「もしかして朝から探し回ってるんですか?!」
『あー……うん、まあ、そんなとこ』
「……わかりました、じゃあ俺がコバン捜索を引き継ぎますから、桜庭さんは一度戻って店を開けて、萬田さんが来るのを待っててください」
『え、でも』
「でも、じゃないです。俺には萬田さんの相手は出来ないですけど、猫探しなら出来ます。あと、どうせ朝から何も食べて無いんだろうからちゃんと食ってください」
朝になってもコバンが帰って来ていないことに気づいた桜庭は、きっと朝食も昼食も抜いているに違いない。読書や作業をしているときはいつもそうなのだ。
『だって』
「子どもみたいなこと言わない。萬田さんを困らせるわけにいかないでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まったのが電話越しにもわかる。彼の飼い猫なのだから当然なのだろうが、桜庭がここまで白猫のコバンに情緒を乱されるのが意外だった。
『わかった……月岡君の言う通りだ。僕は一度店に戻って、仕事を終えたら合流しよう』
「そうしましょう。案外コバンも帰って来てるかもしれませんしね」
そうだね、と桜庭の声が力なく笑った気がした。
とは言え一か月ほどの付き合いしかないコバンが行きそうな場所など翔太には皆目見当がつかない。脱走した猫が行きそうな場所をネットで調べてみると車の下や室外機の下、家の軒下など狭くて暗い場所を好むようなのでひとまず『さくら堂』周辺の該当箇所を見て回ることにした。
しかし問題となるのは人目である。午後の日の高い時間帯ではあるものの狭い路地で若い男が家々の軒先や車の下を覗き込んでいれば不審に思われて当然である。怪しい者では無い、猫を探しているのだと一目でわかるように近所の薬局で猫用のペースト状のおやつと猫じゃらしを購入して手に持ちながら捜し歩くことにした。
当然と言えば当然だが、店の近所は桜庭が探しつくしたのだろう、三毛やサビ色の野良猫の姿はあるものの真っ白な体に赤い首輪をつけてまるまると太ったコバンの姿はどこにも見当たらない。翔太はもう少し捜索範囲を広げようと商店街を挟んで反対側の路地へと足を向けた。こちらは『さくら堂』のある通りとは違い居酒屋やスナックが立ち並んでいて、昼間の時間帯は閑散としていた。翔太はこちら側へはあまり足を踏み入れたことは無く、何があるのかもよくわかっていなかったが、月極駐車場やビルとビルの隙間など猫が潜んでいそうな場所へ声をかけてみる。
「おーいコバンー。おやつだぞー」
コバンという白猫がはたして自分の名前をきちんと認識しているのかわからないが、ひとまず名前を呼ぶことしか探し方の分からない翔太は完全に手探り状態だった。
コンビニで水を買い水分補給を兼ねて休憩を入れてから今度は駅前までさらに捜索範囲を広げてみる。夕方頃になると学校帰りの学生たちが多く、駅前ロータリーは車の通りも多い。まるまると太っていて動きが機敏とは言えないコバンがここまで来ていたとして、もし車道に出てしまったら……と、悪い想像をしかけて翔太は首を横に振った。一晩帰って来なかったというだけだ、最悪の想定をするのはまだ早い。
仕方なく道行く人々に声をかけて赤い首輪をつけた白い猫を見なかったかと聞いて回ることにした。初対面の人に話しかけるのは得意では無いが、我が儘を言っている場合では無い。そこでふと、翔太はコバンの写真がスマートフォン内に一枚も無いことに気づいた。桜庭にメッセージアプリでコバンの写真が欲しいと送ってみたが、接客中なのだろう、既読がつくことは無かった。
空の色が茜色から藍色へと変化してゆく頃、翔太は徒労感に襲われつつも『さくら堂』へ重い脚を引きずりながら戻ってきた。店の明かりはまだついていて、コバンが帰って来ているという一縷の望みをかけて店の玄関をがらりと開ける。ふわりと独特な、例えるならば田舎にある母の実家へ行った時のような古いものの香りが漂ったもののリィンという小さな鈴の音は響いてこなかった。
「月岡君お疲れ様。もう君は帰って構わないよ」
桜庭は自身の目の色と同じような濃く深い緑色の着物に臙脂の帯をあわせたいで立ちで閉店準備をしていた。萬田氏が訪れていただろう、カウンターにはふたり分のコーヒーカップが置かれていた。
翔太は店の玄関ドアに立てかけられている営業中の看板を裏返す。
「コバン、見つかったんですか?」
「いや……戻ってきた様子は無いみたい。昨日入れたご飯もそのままになってるから」
平静を装おうとしているようだが桜庭の声色は沈んでいる。
「だったら俺も手伝います。どうせ予定も無いんで」
「え……でも、これ以上は時間外になっちゃうよ」
「別に良いです。俺もこのまま帰るなんて薄情なことできませんから」
「月岡君……ッ!」
感極まった様子で両腕を広げ翔太にハグをしようとする桜庭をマタドールのようにひらりと躱しながら、翔太は自分が今日訪ね歩いた場所を報告する。広げた両腕が空を切った桜庭は仕方なしに万歳のポーズを取りつつ、そんな場所まで探してくれたのかと驚いていた。
「ネットの知識ですけど、猫の行動範囲って結構広いらしいんで」
「そっか……僕はコバンが行きそうな場所に皆目見当がつかなくって。あの子結構人見知りだから人のいないところに隠れているんじゃないかと思うんだけどなあ」
「え?」
コバンが人見知りである、という桜庭に翔太は思わず首をかしげる。
「ああ、そういえば不思議と月岡君には初めから懐いていたね。君をこの店に連れてきてくれたのもコバンだった」
「連れて来た、って」
「本当に珍しいんだよ、コバンが誰かに懐くなんて。基本的にお客さんがいる時は店に出てこないし、警戒心が強いのか飼い主の僕にだって簡単に抱かせてくれないんだ」
思えばコバンが桜庭の膝の上で丸くなっている様子などこれまで見たことがない。あれは単純に桜庭に対してのみの塩対応だと思っていたが、もしかするとすべての人に平等に塩対応なのだろうか。
「そんなコバンが人を連れて来たから驚いたんだよ。コバンが懐くなんてただ事じゃないぞ、面白そうだと思って即決で君を採用した」
「え、そんな理由で?」
そういえば好奇心に釣られて飛び込んできた翔太に対し、桜庭はアルバイトの面接のようなことはほとんどせずに採用してくれたのだ。そういうスタンスの店なのかと思っていたが、どうやらコバンのおかげだったらしい。
「僕は君で正解だったと思うよ。コバンは人に対しての目利きらしい」
桜庭はそう言って翔太を見ると、目を細めて笑う。翔太より少し背の高い彼は自然と見下ろす形になっているが特に威圧感のようなものは無く、不思議な暗緑色の瞳がまっすぐに翔太を見ていて、翔太は思わず視線を逸らした。顔の良い男に真正面から見つめらるのはまだ慣れない。
目を逸らした翔太をどう解釈したのか、桜庭はクスリと小さく笑った。
「そういえばコバンを拾った時も……」
そこまで口にした桜庭が急に押し黙る。何事かと視線を差し戻せば、桜庭は大きな瞳をさらに大きく見開いていた。ドキリとするほどに濃い緑色の瞳としっかり目が合う。
「そうだ……そうだよ月岡君! コバンを拾った場所だ!」
突然大きな声を出した桜庭は目の前の翔太の両肩をがっしりと掴んで無遠慮に揺さぶる。
「ああ! 僕はなんで今まで思い出さなかったんだろう! 神社だよ月岡君!」
「ちょっ、待ってっ……ちょっと、桜庭さん!」
がくがくと肩を掴んで揺らされる翔太は思わず自分の肩を掴んでいる彼の腕を叩く。しかし桜庭は意に介していない様子でひとりで何か結論付け、普段ののらりくらりとした態度とは裏腹に手早く店の戸締りの確認を始めた。
「なんなんですか急に!」
展開について行けない翔太が説明を求めるが、桜庭はひとりで何か興奮した様子でぶつぶつと、どうして気づかなかったんだと呟いている。何はともあれ、コバンの行きそうな候補がひとつ増えたようなので翔太はわけもわからずついて行くことにした。
それは『さくら堂』から一キロほど離れた場所にある小さな神社だった。桜庭の話によれば地元の氏神を祀る由緒のある神社らしい。
道中桜庭はかいつまんで説明してくれた。『さくら堂』は元々桜庭の祖父が開いた店であり、桜庭は祖父に付いて目利きの修業をしていた。三年ほど前のある日、地元の氏神を祀る神社の古い蔵を解体する際にいくつかの古文書や古い道具類が出て来た為桜庭と祖父は鑑定に向かった。鑑定自体はそれほど時間はかからなかったが、仕事を終えて帰ろうとしたところ神社の境内がやけに騒がしい。見れば小さな白い仔猫が複数のカラスに襲われていた。
桜庭は傷だらけの小さな白猫を助けて動物病院へ駆け込む。そうしてその白猫は桜庭の元でコバンという名をつけられたのだという。
すっかり夜の帳が下りたころ、小さな神社の境内には社務所の明かりも落ちていて街灯がいくつか点在しているだけだった。小さな砂場とブランコが一台設置されており、風にわずかに揺れてギイギイと錆びた音を立てている。
「コバンー」
「おーい、コバン出ておいで」
店から持ってきた懐中電灯を手に近所迷惑にならない程度の声量で各々声をかけながら小さな生き物を捜索する。ここにいなかったらあとはどこを探せば良いのだろうか。もしかしたら本当に事故にでも遭ってしまったのではないか。翔太は最悪な方向へ向きそうな思考をなんとか前方へ修正させながら薄暗い境内の賽銭箱の裏、社務所の軒下や屋根の上へと懐中電灯の明かりを向けながら探していた。
その音は、まるで初めて出会った時のデジャヴのようだった。
リィン、と響いた小さな鈴の音。息を飲んで耳をすませる。リィン、リィン、と二度鳴った鈴の音に向かい翔太は駆け出した。
「桜庭さん! 今、鈴の音が!」
神社のお社の脇で、桜庭が着物が汚れるのも厭わず地面に膝をついて軒下に半身を入れるかたちで覗き込んできた。体を引き抜き、翔太を見上げると何とも情けない顔をして笑いながらその口元に人差し指を添える。
「見てごらん」
心なしか小声でそう言った桜庭は翔太を手招きする。翔太は彼と同じように地面に膝をつき、軒下を覗き込んだ。
白い塊が横たわっている。ふわふわとした毛並みを上下にゆったりと動かしながらコバンは金色の瞳を翔太へ向けた。そして、その白猫に寄り添うように小さな小さなふわふわとした塊がふたつ。コバンと同じように真っ白な毛玉と、まだらにサビ色が混ざった毛玉。小さな毛玉はミーミーと声を上げながらコバンの腹に吸い付いていた。
「……コバンって、雌だったんですね」
「知らなかった? お嬢さんなんだよコバンは。まあ、お母さんになったみたいだけどね」
軒下から身を引き抜いた二人は同時に力が抜けたようにその場に座り込む。どちらともなく大きなため息が漏れ、そして訪れた安堵に笑みが浮かんでしまう。なんだ、そうか、コバンは太った猫では無かったのだ。
「しかし、何もこんな場所で産まなくてもいいのにね」
桜庭が少し拗ねたような物言いをする。いい大人のくせにと思いつつ、翔太は最悪まで検討してしまっていた反動なのかふつふつと愉快な気持ちが腹の底から沸いてくるのを感じる。
「コバンは桜庭さんのこと信用してなかったんじゃないですか?」
「酷いな! 僕が彼女を拾ってきたのに」
「まあ、でも……これからどうするんです? 三匹も飼えないでしょ」
掃除もまともに出来ない三十路の独り者が仔猫二匹とコバンを育てられるとは到底思えない。
「里親を探すよ。でも暫くは面倒見てやらないとなあ……」
「はあ……頑張ってください」
「えっ! 何を他人事みたいな事言ってるんだい。君も手伝ってよ! 僕ひとりで出来るわけ無いじゃない!」
酷い、傷ついた、みたいな顔をしないでもらいたい。無駄に整った顔立ちをしている男なのでなんだか翔太は自分が悪いことをしたような錯覚に陥るのだが、別に悪いことをしているわけではないはずだ。しかし、何故か桜庭に仔猫の世話の勘定に入れられていたようで驚く。
「だって君、暇でしょう。サークルにも入って無いみたいだし、友達も少なそうだし」
「一言余計です。大学には友達をつくりに行ってるわけじゃないんで」
「屁理屈を言う生意気な子だなあ」
くつくつと笑いながら桜庭の肩が翔太の肩とぶつかった。何故かぐいぐいと体重をかけられてきて、ああこの人もコバンが見つかってそうとう浮かれているのだなと思う。ただの店主とアルバイトで、一回りも年上で、どこか浮世離れして見える桜庭という男がやけに近くに思えて翔太は何とも言えない面映ゆさを覚える。
「じゃあ決まり、仔猫の里親が決まるまで君は今日からうちに住み込みってことで。大学もうちから通いなさい」
「はあ……は?!」
前言撤回しなければならない。やはりこの男のことは全くわからない。
「その間のアパートの家賃は僕が給料として支払うから問題無いよ。部屋はいくつか空いてるから好きに使ってもらって構わない……まあ、ちょっと散らかってるけどね」
絶対にちょっとどころではないに違いない。
「ちょっと、勝手に話を進めないでくださいよ!」
なんだか思わぬ方向へと話が転がってゆく。
リィン、という小さな鈴の音がお社の軒下から聞こえた。もしかしたら、何もかも白猫の導きなのではないだろうか。
翔太はどうにも、そう思えてならなかった。
(了)
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