朔が彰人の部屋で暮らし始めて、二週間が過ぎた。
その間、朔の記憶に変化はなかった。
図書館で見つけた事故の記事は、透明なファイルに入れたまま居間の棚に置かれている。朔は仕事がない日に何度かそれを読み返していたが、川の名も、事故の起きた日付も、死んだ高校生と救助された同級生という記述も、新しい記憶を連れてくることはなかった。
彰人は初めのうち、朔が記事を手に取るたび、その呼吸や指先の動きを気にしていた。写真や地図を見せていた頃と同じように、僅かな反応の中から五年前の痕跡を探そうとしていたのである。しかし、やがて朔がファイルを開いていても、夕食の支度をしながらちらりと見るだけになった。
思い出したことがあれば、朔から言う。少なくとも、そう約束している。
代わりに彰人が知るようになったのは、記憶とは関係のないことばかりだった。
朔は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ます。朝食に出したものは残さないが、焼いた魚の皮だけは最後まで皿の隅に置き、彰人が見ていると仕方なさそうに食べる。仕事から帰ったあとは、どれほど汗をかいていても、先に作業靴の汚れを落とす。テレビはほとんど見ず、音がないことも気にしないくせに、彰人が台所で包丁を使っていると、用がなくても近くに来る。
どれひとつ、晴希が死んだ理由を教えるものではなかった。
それでも彰人は、そうした小さなことをいつの間にか覚えていた。
八月上旬の土曜日、彰人は予定より早く仕事を終えた。
午前中に行われた告別式のあと、午後に予定していた打ち合わせが遺族の都合で翌週に延びたためである。会社に戻って事務仕事を片づけてもよかったが、上司に促されるまま退勤した。
朔は今日、屋内の倉庫で仕事をしている。帰宅予定は午後五時だった。まだ四時前なので、部屋には誰もいないはずだった。
車を駐車場に入れ、建物の入口まで来たところで、聞き慣れた声がした。
「だから、玄関まで持っていくよ」
「もう大丈夫よ。ここまで運んでもらったんだから」
「部屋までの途中で落としたら、また拾うことになるだろ」
共用玄関の脇に、朔と老婦人が立っていた。
朔は仕事帰りらしく、灰色のTシャツに作業用のパンツを穿いている。背中には自分のリュックサックを背負い、右手に米の袋、左手には野菜や日用品の詰まった買い物袋を提げていた。老婦人が持っているのは、小さな布製の鞄だけである。
彰人も顔だけは知っていた。同じ建物の一階に住み、朝に会えば挨拶を交わす。時折、建物の前を掃いている姿も見かけるが、名は知らなかった。
老婦人の方が先に彰人に気づいた。
「あら、高瀬さん。お帰りなさい」
「どうも」
彰人が会釈をすると、朔も振り返った。
「今日は早かったんだな。おかえり」
「ただいま。何をしている」
「長谷川さんの荷物を運んでる」
朔が淡々と答える。彰人が三年近く住んでいて知らなかった老婦人の名を、同居して二週間の男は既に知っていた。
「この間も助けてもらったのよ」
長谷川は嬉しそうに言い、朔が持っている買い物袋を示した。
「お水を箱で頼んだら、玄関先から動かせなくなってしまって。どうしようかと思っていたら、藤代さんが部屋の中まで運んでくださったの。今日もスーパーで会ったら、こんなに持ってくれて」
「仕事が早く終わったから、帰る時間が一緒になっただけだよ」
「それでも、なかなかできないわ。ちょっと待っていて」
長谷川は一階の自室に入り、すぐに新聞紙で包んだ大きな袋を持って戻ってきた。中から青い胡瓜の先と、丸い茄子が覗いている。
「娘のところで採れたの。一人では食べきれないくらい届いたから、よかったら持っていって」
「でも、荷物を運んだだけだし」
「お礼じゃなくて、お裾分け。高瀬さんと食べてちょうだい」
彰人の名が出ると、朔は断りきれなくなったらしい。僅かに困った顔をしてから袋を受け取った。
「ありがとう。高瀬さんが料理するから、助かる」
「お前も作れ」
口を挟むと、長谷川が声を立てて笑った。
「仲がいいのね。藤代さん、この間まで見なかったけれど、ご親戚?」
「違います。しばらく預かっているだけです」
彰人が答えると、朔が「夏の間だけ居候してる」と付け加えた。
長谷川はそれ以上関係を詮索せず、朔から荷物を受け取ると、何度も礼を言って自室に戻った。扉が閉まるまで見届けてから、朔は野菜の袋を抱え直す。
「高瀬さん、あの人の名前を知らなかっただろ」
「挨拶はしている。名前はさっき知った」
「三年も住んでるのに?」
「隣人全員の名前を知る必要はない」
「そういうものか」
朔は納得していない顔をしたまま、階段を上り始めた。彰人はその手から野菜の袋を取り上げる。軽いものなので任せてもよかったが、朔は右手の人差し指に小さな絆創膏を巻いていた。
「指はどうした」
「段ボールで切った。これくらいなら仕事に支障はないよ」
「帰ったら洗い直せ」
「もう洗った」
「消毒は」
「そこまでする傷じゃない」
「見てから決める」
「高瀬さんも長谷川さんと変わらないな」
「どこがだ」
「世話を焼くところ」
彰人は言い返さず、先に階段を上った。
部屋に戻って新聞紙を開くと、胡瓜と茄子のほかに、トマト、ピーマン、細長い南瓜まで入っていた。形は不揃いで、トマトの一つは皮が僅かに割れている。それでもどれもよく熟しており、新聞紙を広げただけで青い匂いが台所に満ちた。
朔は手を洗い、彰人に言われるまま指の絆創膏を外した。傷は浅く、血も止まっている。洗い直して新しい絆創膏を貼ると、その間だけは大人しく椅子に座っていた。
「長谷川さんとは、いつ知り合ったんだ?」
彰人が野菜を流しに運びながら尋ねる。
「先週くらい。ごみを出す日を間違えてたら教えてくれた」
「それで水まで運んだのか」
「膝が悪いみたいだから。歩く時、右だけ庇ってるだろ」
彰人には分からなかった。長谷川とすれ違った回数は朔より多いはずだが、歩き方を気にしたことはない。
「娘さんは少し離れた町に住んでて、月に二回くらい来るらしい。去年、旦那さんが亡くなってから一人だって言ってた」
「そこまで聞いたのか」
「向こうが話したんだよ。俺は聞いてただけ」
朔は指先を濡らさないようにしながら、片手でトマトを一つ取った。表面についた水を布巾で拭き、割れたところを避けて持ち直すと、しばらく眺めた。
「食べるなら切るぞ」
「このままでも食える」
「汁が落ちる」
彰人がまな板と包丁を出すと、朔は素直にトマトを渡した。八つに切って皿に並べ、その一つを差し出す。朔は立ったまま口に入れ、ゆっくり噛んだ。
「うまいか」
「甘い」
「それだけか」
「冷えてたら、もっとうまいかも」
それは、朔が自分から口にした数少ない好みだった。
何を食べたいか尋ねても、普段は何でもいいと答える。服も、日用品も、眠る場所も、使えれば構わない。何かを嫌がることはあっても、欲しがる姿をほとんど見せない男が、冷えた方がうまいと言った。
彰人は残りのトマトを保存容器に入れ、冷蔵庫にしまった。
「今夜のぶん?」
「冷えた頃にな」
「覚えてたらでいいよ」
「そこは自分で出せよ」
朔は小さく笑い、食べ残したヘタを指先でつまんだ。
「高瀬さんは、長谷川さんのことを何も知らないんだな」
「同じ建物に住んでいるだけだ」
「俺のことは、いろいろ知ろうとするのに」
責めているのではない。おかしな違いを見つけたような声だった。
彰人は冷蔵庫の扉を閉め、朔を見る。
「お前の記憶を調べると決めたからだ」
「それだけ?」
「ほかに何がある」
朔は返事の代わりに、開いた新聞紙の上に野菜を並べ直した。胡瓜を大きさの順に置き、最も曲がった一本を手に取る。
「別に。俺も高瀬さんのことを少しずつ知ってるから、同じなのかと思っただけ」
「何を知った」
「魚の皮まで食べろって言う。洗った食器の場所を間違えるとすぐ気づく。冷房は二十七度より下げない。寝る前に必ず玄関の鍵を確かめる」
「その程度か」
「まだ二週間だからな」
今後も知る時間があることを当然とする言い方だった。
彰人はその言葉を聞き流し、夕食に使う野菜を選んだ。
翌日、彰人は久しぶりに仕事のない朝を迎えた。
朔も日雇いの仕事を入れておらず、朝食を済ませてから二人で部屋を掃除した。彰人が浴室と洗面所を洗い、朔が掃除機をかける。洗濯機には二人分の衣類が入り、ベランダには白いワイシャツと朔のTシャツが並んだ。
掃除を終えたら、昨日もらった野菜で昼食を作るつもりだった。
彰人が浴室から出た時、居間のテーブルに置いていたスマートフォンが鳴った。
画面に表示されたのは、入社二年目の後輩の名だった。今日は朝から葬儀を一件担当している。昨日の時点で必要な確認は済ませたはずだが、休日に電話をかけてくる以上、何かあったのだろう。
「高瀬です」
通話に出ると、切羽詰まった声が聞こえた。
会葬礼状に印刷された故人の名が、遺族から預かった原稿と一字違っている。刷り上がったものを会場に運び、並べる直前になって気づいたらしい。開式までは三時間を切っていた。
「昨日、原稿と見本を照合したのか」
『したつもりだったんですが』
「つもり、じゃ確認したことにならない。原稿は今どこにある」
『事務所です。データは会場のパソコンにも』
「触るな。間違ったデータを上書きしたら、余計に時間がかかる。印刷会社には連絡したか」
『まだです。先に高瀬さんに』
「なぜ俺が最初なんだ。今日は担当者がほかにもいるだろう」
受話口の向こうで、後輩が黙った。
彰人は息を吐き、壁の時計を見た。今から会社に行って原稿を確認し、印刷会社に事情を説明すれば、開式には間に合う。ほかの担当者に任せてもいいが、一から状況を説明する時間が惜しかった。
「原稿を写真に撮って送れ。俺が会社に行く。お前は印刷会社に連絡して、最短で何部用意できるか確認しろ。間違った礼状は一枚も出すな」
『すみません。ありがとうございます』
「礼は終わってからでいい。次に連絡するまで、勝手な判断をするな」
通話を切ると、掃除機の音が止まった。
朔が居間の中央に立ち、彰人を見ている。
「仕事?」
「少し出る」
「休みじゃなかったのか」
「間違いが見つかった」
彰人は寝室に入り、部屋着を脱いだ。別のワイシャツをクローゼットから出し、急いで袖を通す。ベルトを締めながら戻ると、朔は掃除機を壁際に寄せ、床に落ちていた彰人の鞄を拾っていた。
「昼は」
「いらない。戻る時刻は分からない」
「朝、食ったばかりだから?」
「向こうで何か買う」
「買わないだろ」
朔は決めつけるように言い、彰人に鞄を渡した。
「何を根拠に」
「忙しい時ほど、自分のことを後回しにするから」
「二週間で分かったつもりになるな」
「まだ二週間だから、違ったらあとで直すよ」
昨日と同じ言葉を返され、彰人は黙った。
玄関で靴を履いている間に、朔が台所から水のボトルを持ってくる。受け取らずにいると、開いた鞄に勝手に入れられた。
「喉が渇く前に飲めって、高瀬さんが言った」
「俺は熱中症で倒れていない」
「倒れてからじゃ遅いんだろ」
それも彰人が言った言葉だった。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい」
扉を閉める直前、朔が僅かに笑ったのが見えた。
会葬礼状は、開式の四十分前に用意できた。
印刷会社がほかの仕事を止めて対応し、彰人が受け取って会場まで運んだ。後輩は遺族に誤りを見せずに済んだことに安堵していたが、彰人の顔を見ると、また深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「俺に謝る前に、間違えた原因を確認しろ。今回は間に合ったが、名前を間違えるのは、印刷物を取り替えれば済む話じゃない」
「はい」
「見本を作った人間と確認する人間を分けろと教わっただろう。昨日、どうして一人で済ませた」
「忙しそうだったので、声をかけにくくて」
「分からないまま進められる方が困る」
後輩はもう一度「はい」と答えたが、先ほどより声が小さかった。
言うべきことは伝えた。彰人はそれ以上責めず、会場に並べられた礼状を一部手に取って確かめる。故人の名は正しい。予備の数も足りている。
そのまま開式まで残ろうとしたところ、年上の同僚に肩を叩かれた。
「あとは俺たちでやる。お前、今日休みだろ」
「ここまで来たので、最後まで」
「だから後輩が声をかけにくくなるんだよ。自分は休みでも出てきて何でもやる。それを基準にされたら、若い奴は息が詰まるぞ」
「同じことをしろとは言っていません」
「口で言わなくても、態度で言ってるんだよ」
冗談めかした言い方だったが、後輩は離れたところでこちらの様子を窺っていた。
彰人は反論せず、会場を出た。
帰宅したのは午後二時を過ぎていた。
共用廊下まで、焼いた野菜の匂いが漂っていた。鍵を開けると、冷房の風と一緒に香ばしい匂いが流れてくる。台所では朔がフライパンを火にかけ、昨日もらった茄子とピーマンを炒めていた。
「おかえり。間に合った?」
「ああ」
「ならよかった」
朔はそれ以上仕事のことを尋ねず、フライパンに蓋をした。テーブルには冷やしたトマトと、胡瓜の浅漬け、二人分の箸が並んでいる。
「昼はいらないと言っただろう」
「俺の分を作ったら余った」
「最初から二人分ある」
「帰ってくると思ったから」
朔は悪びれずに答えた。
「何か買って食べるって言ってたけど、高瀬さんは忙しかったら食わない。今から作ると遅くなるから、先に作っておいた」
「分かったようなことを言うな」
「違った?」
彰人は鞄から朝に渡されたボトルを取り出した。中身は半分ほど減っている。
朔はそれを見て、満足したようにフライパンの火を止めた。
「着替えてくる」
「その前に水を飲んだら。顔、赤いよ」
言われるまま冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで一息に飲むと、冷たさが喉から胸に落ちた。外の熱気の中を動き回った体が、そこでようやく自分の疲れに気づいたように重くなる。
朔は皿に茄子とピーマンを盛り、彰人の前に置いた。
「座って食べたら? 着替えは逃げないだろ」
「汗をかいている」
「そのくらい気にしないよ」
いつか彰人が朔に告げたことを、形を変えて返されているようだった。
彰人はネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲って椅子に座った。朔も向かいに腰を下ろす。茄子は火が通りすぎて少し形を失い、ピーマンには焦げたところがあったが、味つけは悪くなかった。
「生姜は最後に入れた」
「入れすぎだ」
「高瀬さんと同じくらいだよ」
「俺はこんなに入れない」
「この間は辛かった」
反論できず、彰人は次のひと口を食べた。
朔は冷えたトマトを先に食べ、昨日より僅かに表情を緩めている。本人は気づいていないのかもしれない。それでも彰人には、甘いと言った時よりも気に入っていることが分かった。
「後輩、かなり怒られた?」
食事の半ばで、朔が尋ねた。
「必要なことは言った」
「朝の電話より怖い顔で?」
「仕事の間違いだ。名前は一字でも違えば、別の人間になる」
「それは分かるよ」
朔は自分の名を確かめるように一度だけ目を伏せた。しかし、晴希の名にも事故にも話を広げず、皿の上の茄子を箸で割る。
「高瀬さんの言ってることは、たぶん全部正しいんだろうな」
「なら何だ」
「正しいことを、相手が聞けなくなる言い方で伝えるのは、少し損だと思っただけ」
彰人は箸を止めた。
「間違えた人間の気分まで考えて、言うべきことを変えるつもりはない」
「変えなくていいよ。最初に一言、間に合ってよかったとか、電話してきてくれてよかったって言えばいい」
「間違いに気づいたら連絡するのは当然だろう」
「高瀬さんにとってはな」
朔は静かに言った。
「高瀬さんは、自分が休みでも会社に行くし、忙しくても飯を抜いたくらいで何も言わない。夜中に帰ってきても、次の朝はいつもどおり起きる。それを自分にさせてるから、ほかの人にも同じくらいできると思うんだろ」
「思っていない」
「じゃあ、できない人に腹を立てる?」
すぐに否定できなかった。
仕事で手を抜く人間は嫌いだった。確認を怠り、教えられたことを覚えず、誰かが直してくれると思っている者には厳しくなる。しかし、今日の後輩がそうだったわけではない。忙しそうな先輩に声をかけられず、一人で確認を終えようとして見落とした。二年目の頃の自分なら、声をかけにくいという理由を理解できなかっただろう。
今も、完全には理解できない。
「死んだ人間のことは、あとでやり直せない」
彰人は答えた。
「名前を間違えられた礼状が遺族の手に渡れば、刷り直しても、見た事実までは消せない。だから、間違いがないと言い切れるまで、何度でも確認させる」
「それを後輩に言った?」
「言わなくても分かっているはずだ」
「たぶん、そこが駄目なんだよ」
朔は呆れたように笑った。
「高瀬さん、考えてることが顔に出ない。怒ってる時だけは分かりやすいけど、その人を助けたいのか、見放したいのかは、言わないと伝わらない」
元恋人にも似たようなことを言われた覚えがあった。
一緒にいても楽しくなさそうだ。何を考えているのか分からない。会いたかったことも、帰りを待っていたことも、言葉にしてくれなければ存在しないのと同じだと。
その時の彰人には、隣にいることや、時間を空けること自体が答えに思えた。相手が望むような言葉を口にすることは、思ってもいないことを取り繕うようで苦手だった。
結局、何も伝えられないまま別れた。
「お前は、人に厳しくないのか」
話を変えるように尋ねると、朔は少し考えた。
「厳しくするほど、人に期待してない」
「それは優しいとは言わない」
「知ってるよ」
朔は否定しなかった。
「仕事先では、怒ってる人と困ってる人を早く見分けた方が楽なんだ。声をかけない方がいい人もいれば、何か手伝えば機嫌が直る人もいる。相手が何を求めてるか分かれば、余計なことを言わずに済む」
日雇いの現場だけの話ではないのだろう。
知らない男に誘われ、金を受け取ってきた朔は、相手が望むものを見分け、自分をそれに合わせることで身を守ってきたのだろう。嫌うことも期待することもせず、求められた形だけを差し出す。人の顔色を読むことは、朔にとって親しくなるためではなく、その場を無事に過ごすための技術だったのかもしれない。
「長谷川さんの荷物を運んだのも、機嫌を取るためか」
「違うよ」
朔は即座に答えた。
「困ってたから」
「見返りは」
「考えてない。今日の野菜は、たまたまもらっただけだ」
「人に期待していないと言う割に、困っている人間は放っておけないのか」
「矛盾してても別にいいよ。俺は自分がどういう人間だったか、覚えてないんだから」
朔は箸を置き、冷えたトマトをもう一つ取った。
「今やったことが、今の俺だろ」
そう言って、トマトを口に入れた。
彰人は返す言葉を失った。
五年前までの朔がどのような人間だったのか、彰人はほとんど知らない。晴希と親しかったこと。事故の日、崩れた岸から落ちた晴希の腕を掴み、助けようとしたこと。救助されたあとに、自分が殺したと繰り返したこと。それだけで、朔のすべてを決めたつもりになっていた。
目の前にいる男は、記憶がなくても、膝を庇って歩く老婦人に気づく。誰も見ていないところで重い荷物を持ち、礼を求めず、もらった野菜を冷やした方がうまいと言う。
今の朔を知ることと、五年前の真相を知ることは、同じではない。
彰人が朔に近づいたのは、後者を知るためだったはずなのに、いつからか、知るのは前者ばかりになっていた。
「高瀬さんも同じじゃない?」
朔が言った。
「何がだ」
「言葉は厳しいけど、休みの日に後輩を助けに行った。今やったことが、今の高瀬さんだろ」
「俺は仕事をしただけだ」
「高瀬さんがそう思いたいなら、それでいいよ」
朔は話をそこで切り、食事を再開する。彰人も黙って箸を動かした。
言葉がなくても、二人でいることが苦になる沈黙ではなかった。
食後、後輩からメッセージが届いた。
『今日は本当にありがとうございました。次からは必ず二人で確認します。休みの日にすみませんでした』
彰人は短く返事を打った。
『分からない時は、忙しそうでも声をかけろ。開式前に気づいて連絡したのは正しかった』
送信したあと、画面を伏せる。
流しで皿を洗っていた朔が振り返った。
「何て返した?」
「お前には関係ない」
「また怖いこと書いた?」
「必要なことを書いた」
「それならいいけど」
朔は水を止め、洗った皿を彰人に差し出した。彰人が受け取り、布巾で拭く。肩が触れそうな距離で並んでも、もう互いに大きく身を引くことはなくなっていた。
「藤代」
「何?」
呼ぶと、朔はすぐに振り向いた。
二週間前には、自分の名だと気づくまでに間があった。今は彰人の口から出た呼びかけなら、考えるより先に反応する。
「長谷川さんに会ったら、トマトがうまかったと伝えておいてくれ」
「高瀬さんが言えばいいだろ」
「お前がもらったんだ」
「二人で食べてって言われた。半分は高瀬さんの分だよ」
「なら、次に会った方が言えばいい」
「そうだね」
朔はまた皿を洗い始めた。口元には僅かな笑みが残っている。
次、という言葉を、どちらも言い直さなかった。
夏が終われば、朔はこの部屋を出る。長谷川から野菜をもらうことも、二人で同じテーブルを囲むことも、それまでの話である。
それでも彰人は、冷蔵庫に残ったトマトを明日の朝に出すつもりでいた。朔がまた少しだけ表情を緩めることを、既に知っているからだった。
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