盆に入ってから、彰人の体には線香の匂いが染みついていた。
朝、洗い立てのワイシャツに袖を通しても、昼を過ぎる頃には襟元から白檀の匂いが立つ。初盆を迎える家を訪ね、盆棚の飾り方を確かめ、法要に使う供花や返礼品を届ける。会社に戻れば、今度は葬儀を終えたばかりの遺族から、何を用意すれば故人を初めての盆に迎えられるのかと電話が入った。
死んだ人間が家に帰るとされる数日間、彰人の仕事は、普段以上に死者と生者の間を行き来するものになる。
提灯はどこに置けばいいのか。迎え火は必ず焚かなければならないのか。好物を供えたいが、何が好きだったのか思い出せない。遺族によって尋ねることは違っても、そこにいない人間をもう一度家に迎えたいという思いは似ている。彰人は宗派や地域の習慣を説明しながら、形式どおりでなくても構わないこと、故人を思って用意したものなら間違いではないことを伝えた。
そのたび、墓の下にいる弟のことを考えた。
晴希は、盆になれば母親の家に帰るのだろうか。それとも、骨の納められた三枝家の墓にいるのか。死者が生前の家族を選べるなら、母親でも彰人でもない場所を選ぶかもしれない。
答えのないことを考えているうちに次の電話が鳴り、彰人はまた別の死者の名を確認した。
盆入りの翌日、午後の法要が一件、予定より早く終わった。
会社に戻るまでには少し時間がある。彰人は車のトランクに積んでいた掃除道具と供花を取り出し、三枝家の墓に向かった。
七月に訪れた時より、墓地には多くの人がいた。通路の両側には新しい花が供えられ、蝋燭に火を移す家族の話し声と読経が、絶え間ない蝉しぐれに混じっている。あちらこちらから上がる線香の煙は薄い膜のように墓石の列を覆い、強い日差しの下にいながら、そこだけが生きた人間の暮らす町から切り離されているように見えた。
三枝家の墓には、誰かが訪れた様子がなかった。
花立ては空で、香炉にも新しい灰はない。七月に彰人が掃除したあとに降った雨の跡が、墓石の側面に白く残っているだけだった。
母親が先に来るとは思っていなかった。再婚相手の住む町に移って初めての盆である。新しい家の習慣があり、向こうの親族に顔を出す必要もあるのかもしれない。晴希の墓参りは盆の終わりにするつもりなのだと、考えることもできた。
それでも、今年は来ないのかもしれないとも思った。
母親は昔から、自分の感情を持て余す子どものような人だった。嬉しい時には家族全員が同じように喜ばなければ機嫌を損ね、腹を立てれば、何日も家族の誰とも口を利かなくなった。自分が寂しいことには敏感なくせに、相手がなぜ黙り込んでいるのかを考えることはない。彰人とは、幼い頃から合わなかった。
父も同じだったのだろう。
二人が口論を始めると、父は途中から何も言わなくなった。母が泣き、怒鳴り、過去の話まで持ち出しても、黙って煙草を吸っていた。その沈黙が母を余計に怒らせていると彰人にも分かったが、父にはほかのやり方がなかったのかもしれない。やがて父は家を出ることを選び、彰人は父についていった。晴希は母のそばに残った。
どちらの子どもを連れていくか、大人たちがどう決めたのかは知らない。彰人は父と暮らす方がいいと自分で答えた。晴希も母を一人にできないと言った。だから兄弟が別れたのは、それぞれが選んだ結果だと思っていた。
五年前、川から引き上げられた弟の体を見るまでは。
彰人は水を汲み、墓石に掛けた。柔らかな布で表面を拭い、文字の溝に溜まった汚れを小さな刷毛で掻き出す。花立てを洗って水を替え、白と黄の菊を挿した。晴希は菊を好んでいたわけではない。生きていた頃に花の好みを尋ねたことなど、一度もなかった。
晴希が好きだったものなら、ほかにいくらでも覚えている。
まだ家族四人で暮らしていた頃、夏休みの晴希は、野球部の練習から帰った彰人のアイスを勝手に食べた。冷凍庫の奥に隠したつもりだったのに、風呂から上がると、晴希が居間の床に座って棒だけを口に咥えていた。
「それ、俺のだろ」
「名前書いてなかったし」
「冷凍庫の一番奥に入れてあった」
「見つけた俺のもの」
晴希は悪びれもせず、空になった袋をひらひら振った。彰人が頭を小突くと大袈裟に痛がり、翌日、同じアイスを二本買って帰れば、今度は自分の分を半分残して彰人に寄越した。
「昨日の返す」
「溶けてるじゃないか」
「半分も返したのに文句言うなよ」
「一本食ったんだから一本返せ」
「兄貴の方がでかいんだから、半分で足りるだろ」
意味の分からない理屈に呆れながら、彰人は溶けかけたアイスを受け取った。
それだけの記憶だった。
母親の機嫌も、父親の沈黙も関係なく、兄のものを勝手に食べた弟と口論した、ごく普通の夏の日である。晴希を思い出そうとするたび、最後に見た濡れた顔と冷たい体ばかりが浮かんでいたのに、今日はなぜか、唇の端にアイスをつけて笑う顔を思い出した。
線香に火をつけ、香炉に立てる。煙が真っ直ぐ上がったあと、風に押されて彰人の黒い上着に纏わりついた。
手を合わせても、報告できることはなかった。
五年前に晴希と一緒にいた男を、自分の部屋に住まわせている。晴希の死について探るために近づいたはずが、今は朝になればその男の食事を作り、仕事を終えれば待っている部屋に帰っている。ほかの男がつけた歯型を見て腹を立て、自分が抱けばいいのかと考えた。
どれも、死んだ弟に告げられることではなかった。
目を開けると、煙の向こうで三枝晴希の名が揺れていた。
「また来る」
それだけを口にし、彰人は立ち上がった。
仕事を終えて帰宅したのは、午後九時を過ぎてからだった。
玄関を開けると、冷房の風と出汁の匂いが流れてきた。朔は台所に立ち、鍋の中の素麺を菜箸でほぐしている。彰人の帰宅時間に合わせて茹で始めたらしく、テーブルには切った胡瓜と錦糸卵、冷やしたトマトが並んでいた。
「おかえり」
「ただいま。連絡を見たのか」
「九時頃になるって書いてあったから。茹ですぎてないと思う」
朔はざるに素麺をあけ、流水で冷やした。指先で麺を揉む手つきはまだ慣れていないが、以前のように、料理はできないと初めから諦めることはなくなっている。
彰人が鞄を置いてネクタイを緩めると、朔が一度こちらを見た。
「今日も線香の匂いがする」
「盆の間は仕方ない」
「昨日より強い。高瀬さんが部屋にいるのに、墓にいるみたいだ」
彰人は返事をせず、洗面所で手を洗った。石鹸を使っても、指の間にはまだ微かな煙の匂いが残っている。
二人で向かい合い、遅い夕食を取った。朔の作ったつゆは少し濃く、錦糸卵は細いものと太いものが混じっていた。それでも冷たい麺は、一日中礼服で動いたあとにも食べやすく、彰人は用意された一人前を残さず食べた。
「盆って、忙しいんだな」
「葬儀が増えるわけではない。初盆の法要や供物の手配が重なる」
「死んだ人が帰ってくるから?」
「そう信じて迎える家がある」
「高瀬さんも、誰か迎えるの」
箸を持つ手が僅かに止まった。
朔は何気なく尋ねただけらしい。彰人の服から線香の匂いがする理由と同じ程度の興味で、冷えたトマトを口に入れている。
「墓参りには行った」
「そう」
誰の墓かは聞かなかった。
少し前なら、その遠慮をありがたいと思っただろう。今は、何も知らないから踏み込まない朔の横顔を見ることが苦しかった。
食器を洗い終え、彰人は先にシャワーを浴びた。髪を洗い、首筋や腕を石鹸で何度も擦ると、一日中纏っていた線香の匂いはようやく消えた。浴室を出た時には、鏡に映る自分が死者の側から生者の暮らす部屋に戻ってきたように感じられた。
薄い部屋着に着替えて居間に戻ると、朔のスマートフォンが鳴っていた。
朔はソファの端に座り、画面を見つめている。登録している相手なのか、少し迷ったあとに通話に出た。
「もしもし」
『晴希くん?』
静かな部屋では、耳に当てたスマートフォンから漏れる男の声まで聞こえた。
甘ったるく引き延ばされた晴希という名に、彰人の足が止まる。
『この前は途中で帰っちゃったから、寂しかったよ。今夜、会えない?』
朔は彰人を見た。
ほんの一瞬だけ視線が重なり、すぐに外される。そのあとに口から出た声は、彰人が毎日聞いているものとは違っていた。少し高く、息を混ぜ、相手が望む柔らかさを注意深く作った声だった。
「良いよ、嬉しい。いつものホテルで良い?」
気づいた時には、彰人は朔の前に立っていた。
耳からスマートフォンを奪い、通話を切る。画面に残った番号まで消してしまいたい衝動を、辛うじて指先に留めた。
「何すんだよ」
朔が立ち上がる。
「返せ」
「行くな」
「高瀬さんには関係ないだろ」
「ある」
「何があるんだよ。あれから何も言わなかったくせに」
朔がスマートフォンを取り返そうと手を伸ばす。彰人はその手首を掴み、反対の手で機器をテーブルに置いた。
「今夜はここにいろ」
「嫌だ。離せ」
振りほどこうとした腕を放せなかった。首にあった鬱血痕は薄くなり、今は黄色い影が僅かに残るだけである。あの痕をつけた男と、電話の相手が同じかは分からない。どちらであっても、朔がこれからまた、あの作り物の声で知らない男に触れられることが耐えられなかった。
彰人は朔の手首を掴んだまま、寝室に連れていった。
「高瀬さん、痛い」
その一言で我に返り、僅かに力を緩める。それでも手は放さず、開いていた扉を肩で押した。寝室に入ると、朔の体をベッドに押し倒す。
白いシーツの上で栗色の髪が広がった。驚きに見開かれた目が、覆いかぶさった彰人を見上げている。
「誰でもいいなら、俺にしろ」
言葉にした途端、それがどれほど酷いものか分かった。
朔の顔が歪んだ。
怯えたのではない。傷ついた顔を見せるより先に、何も期待していなかった人間のように唇を吊り上げる。
「どうせ最初から、そのつもりだったんだろ」
「違う」
「寝る場所と飯をくれて、俺が高瀬さんの言うことを聞くようになったら、好きにできると思ってたんじゃないの」
「違うと言っている」
「何が違うんだよ。今、押さえつけてるだろ」
彰人は、手首を掴んでいた手を放した。
皮膚には指の形が薄く残っている。そこに触れて謝る資格もないように思え、彰人は朔の上から体を退けた。
「今のは、俺が悪かった」
ベッドの脇に立ち、息を整える。朔が起き上がって部屋を出ても、止めてはいけない。そう思うのに、胸の内側では、行かないでほしいという身勝手な願いが膨らんでいた。
「最初から、お前の体を求めて近づいたわけじゃない」
朔に近づいた本当の理由は、それよりも正しいとは言えない。彰人は続く言葉を呑み込んだ。
「だが、今は抱きたいと思っている。ほかの誰でもなく、お前を」
朔の目が揺れた。
「男を抱いたことはない。うまくできるとも言えない。それでも、さっきの男のところに行かせたくない。お前が嫌なら、もう触らない」
「誰でもいいって言ったのに」
「あれは取り消す」
「俺じゃなくてもいいみたいだった」
「お前でなければ、こんなことはしない」
答えたあとで、自分が何を認めたのかに気づいた。
朔はすぐには動かなかった。仰向けのまま、自分の手首に残った赤みを親指で擦っている。やがて上体を起こし、彰人の部屋着の裾を掴んだ。
「俺が、高瀬さんに抱かれたいって言ったら?」
「それでも、お前が本当に望んでいるのか確かめる」
「面倒だな」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
朔の指が裾を握り直した。
「あの男じゃなくて、高瀬さんに抱いてほしい。これでいい?」
彰人は頷いた。
今度は押し倒さず、ベッドに座った朔と目の高さを合わせる。頬に手を添えると、朔は逃げなかった。親指で皮膚を撫で、顔を寄せても、先ほどのような作り物の笑みは浮かばない。
唇が触れる直前に一度止まり、朔の目を見る。
「キスするぞ」
「いちいち言うの?」
「悪いか」
朔は僅かに目を細め、自分から距離を縮めた。
初めのキスは、ひどく不器用だった。
角度が合わず、互いの鼻先が触れる。唇を重ねたまま動こうとして歯が当たり、朔が小さく息を漏らした。笑われたのかと思って離れかけると、首の後ろに腕が回される。
「やめるなよ」
「痛くなかったか」
「このくらい平気」
「平気かどうかじゃなくて、嫌なら言え」
「嫌じゃない」
答えを聞いてから、もう一度口づけた。
今度は急がず、朔の下唇を挟むように触れる。薄く開いた隙間に舌を入れると、朔が慣れた動きで応じた。彰人の舌を迎え、絡め、口づけの深さまで導こうとする。その直後、喉の奥から甘い声が零れた。
「ん……」
あまりにも整った声だった。
唇が触れた時も、舌を入れた時も、彰人が喜びそうな瞬間に正確に上がる。電話で聞いたものより低いが、同じように相手に聞かせるために作られていた。
彰人は唇を離した。
「それをやめろ」
「何を」
「その声だ」
朔の腕が首から落ちる。
「声を出すなってこと?」
「違う。俺が喜ぶと思って出すな」
「でも、男はこういう方が好きだろ」
「ほかの男の話はしていない」
「高瀬さんだって同じじゃないの」
「同じにするな」
強く言うと、朔は困ったように黙った。
怒られた理由が分からないらしい。裸になることにも、体の奥に他人を受け入れることにも慣れている男が、声を作るなと言われただけで、何をすればいいのか分からない顔をしている。
「気持ちよくないなら、そう言え。触ってほしくないところがあるなら止めろ。俺を満足させるために、お前が何かを演じる必要はない」
「何もしなかったら、高瀬さんは何がいいか分からないだろ」
「分からないから、お前を見る」
彰人は朔の頬にもう一度触れた。
「本当に出る声まで止めろとは言わない」
朔はしばらく彰人を見つめたあと、視線を落とした。
「そんなの、俺にも分かんないかもしれない」
「何がだ」
「どれが本当か」
彰人は答えず、伏せられた瞼に唇を押し当てた。
頬、こめかみ、耳の下と場所を変え、首筋に降りる。薄く残った他人の痕に触れた時だけ、朔の肩が僅かに強張った。彰人はそこを避け、何もない皮膚に口づける。歯は立てず、舌先で舐めることもせず、熱を確かめるように唇を置いた。
部屋着の裾から手を入れ、脇腹に触れる。外で日に焼けた腕や首と違い、服に隠れた肌は驚くほど白かった。薄い腹の下には日雇い仕事でついた筋肉があり、掌を滑らせるたび、呼吸に合わせて固くなったり緩んだりする。
「脱がせるぞ」
朔は両腕を上げた。
Tシャツを抜き取ると、白い胸が露わになる。彰人よりずっと薄い体だったが、少年のような頼りなさはない。肩にも腹にも成人した男の骨格があり、その上に、小さな痣や古い傷が点々と残っていた。
彰人は鎖骨を指でなぞり、胸の先に触れた。平らだった突起が指の腹の下で少しずつ硬くなる。朔の唇が開いたが、声は出なかった。
「嫌か」
「違う。声、出さない方がいいのかと思って」
「作るなと言っただけだ」
「難しいな」
「考えなくていい」
親指でゆっくり擦り、反対側に口をつける。舌先で先端を転がすと、朔の腹が微かに跳ねた。彰人の髪に指が入り、すぐに力を抜く。その動きの方が、先ほどの甘い声よりよほど正直に思えた。
同じ場所をもう一度舐める。
「……そこ、変な感じする」
「嫌な方か」
「分からない。もう一回して」
言われたとおりにすると、今度は短い息が喉に引っかかった。
彰人は朔の反応を確かめながら、胸から腹に唇を降ろした。臍の脇に口づけ、腰骨の内側を指で撫でる。ジーンズの前は既に僅かに膨らみ、布越しに触れると、朔の腿が開いた。
「ここは、触っていいのか」
「聞くまでもないだろ」
「お前の口から聞きたい」
朔は一度だけ目を逸らした。
「触って」
ボタンを外し、下着ごとジーンズを脱がせる。露わになった性器は半ばまで硬くなっていた。彰人が指を添えただけで、先端から透明な雫が滲む。
根元からゆっくり握り、皮膚を上下させた。朔はすぐに腰を動かし、彰人の手に合わせようとする。
「動かなくていい」
「高瀬さんがやりやすいようにしてる」
「俺ではなく、お前が気持ちいいようにしろ」
「同じじゃないの」
「今までのお前には、違ったんだろう」
朔の腰が止まった。
彰人は力を緩め、先端を親指で撫でた。漏れた雫を広げ、敏感そうな縁を辿ると、朔の腿が細かく震える。呼吸が少しずつ浅くなり、やがて堪えきれなかったような声が落ちた。
「あ……」
先ほどよりずっと小さく、聞かせる意図のない声だった。
彰人は同じ場所にもう一度触れた。
「今のは」
「聞くなよ」
「気持ちよかったのか」
「……たぶん」
「なら続ける」
握る速さを僅かに上げると、朔はシーツを掴んだ。腰を揺らすことも、声を作ることもしない。ただ彰人の手が先端を擦るたびに腹に力が入り、唇から途切れた息が漏れている。
その姿を見ているだけで、彰人の下腹も痛いほど張った。
自分の服を脱ぎ、ベッドに戻る。朔の視線が彰人の肩から胸、腹に降り、最後に硬くなったものに止まった。
「大きいな」
「ほかと比べるな」
「初めてなら、比べないと分からないだろ」
「入らないなら、入れなくていい」
朔は驚いたように彰人を見た。
「ここまでして?」
「お前が痛がるならやめる」
「本当に変だな、高瀬さん」
笑った声には、電話で聞いた甘さも、彰人を試す冷たさもなかった。
朔は上体を起こし、ベッドを降りようとした。
「どこに行く」
「ローションとコンドーム。居間に置いてる荷物の中」
「俺が取る。お前は待っていろ」
彰人は薄い毛布を朔の腰に掛け、教えられたとおり居間の収納から黒いポーチを持ってきた。中には使いかけのローションと、個包装のコンドームがいくつか入っている。朔がこれまで見知らぬ男たちと使ってきたものだと考えると胸がざらついたが、今は口にしなかった。
ベッドに戻り、ローションを手に取る。
「どうすればいい」
「最初は指一本。ローションは多い方がいい」
朔は慣れた口調で答え、仰向けのまま膝を立てた。自分で脚を開き、奥に触れやすいよう腰を浮かせようとする。
彰人はその腰を支え、折った枕を差し入れた。
「そのままでいい」
「俺、自分でできるよ」
「今日はしなくていい」
ローションを指にたっぷり取り、狭い入口に触れる。指先で周りを撫でると、朔の体からすぐに力が抜けた。受け入れるために緩めることまで、考えなくてもできるらしい。その慣れが痛々しく、彰人は急がず、濡れた指で円を描いた。
「早く入れて平気だよ」
「急ぐ理由がない」
入口が指先を受け入れるまで、何度も外側を解した。第一関節まで沈めると、内側の熱が指をきつく包む。
朔は眉ひとつ動かさなかった。
「痛くないか」
「大丈夫」
「気持ちよくもないな」
「準備ってそういうものだろ」
「お前の体だ。決めつけるな」
ゆっくり奥まで進め、内側を探るように指を曲げる。どこに触れればいいのか彰人には分からない。それでも朔の腹に置いた手で、筋肉が強張る瞬間を捉え、角度を少しずつ変えた。
ある場所を指先が擦った時、朔の腰が大きく揺れた。
「今のは痛かったか」
「違う」
「なら、もう一度触るぞ」
「待って」
言われて手を止めると、朔は片腕で目元を隠した。
「どうした」
「分かんない。そこ、今まで触られてたはずなのに」
「嫌ならやめる」
「違うって言ってるだろ」
朔は腕の下から彰人を見た。色の薄い瞳が、熱を持ったように潤んでいる。
「もう一回、して」
同じ場所に指を押し当てると、今度は明確な声が上がった。
「あっ……」
朔自身が驚いたように口を閉じる。彰人はそのまま強く押さず、指の腹でゆっくり撫でた。触れるたびに内側が脈打ち、寝かされていた性器から雫が零れて腹を濡らす。
「藤代、息を止めるな」
「だって、変になる」
「何が変だ」
「声、勝手に出る」
「それは止めなくていい」
二本目の指を添える。狭い入口が抵抗し、朔の眉が僅かに寄ったため、彰人はすぐに動きを止めた。
「痛いか」
「少し。でも、平気」
「平気ではなくなる前に言え」
ローションを足し、時間をかけて二本を馴染ませる。朔は初めこそ静かに耐えていたが、指が奥の場所を擦るたび、作る余裕のない声を零すようになった。腰が逃げれば追わず、彰人の手を求めるように戻ってきた時だけ同じ場所に触れた。
「そこ……もっと」
初めて朔から求められ、胸の奥が強く締まった。
彰人は指を動かしながら、もう片方の手で性器を包んだ。奥と先端を同じ速さで刺激すると、朔が大きく背を反らす。
「待って、高瀬さん、それ……」
「嫌か」
「気持ちいい。分かんないけど、すごく……」
言葉は最後まで続かなかった。朔は彰人の腕を掴み、震える息を何度も吐いた。演技ではない。彰人を喜ばせるためでも、自分が生きていると確かめるためでもない。自分の体に起きていることを受け止めきれず、そのまま声にしている。
彰人は、朔が求めた刺激を途切れさせないように指を動かした。
「高瀬さん、もう、入れて」
「まだ痛まないか」
「痛くない。早くじゃなくていいから、入れてほしい」
彰人は指を抜き、個包装を開けた。コンドームをつけ、その表面と朔の入口にローションを足す。朔の脚の間に体を入れると、開かれた腿が彰人の腰を挟んだ。
入口に先端を当てる。
「本当にいいんだな」
「高瀬さんがいいって、もう言っただろ」
彰人は朔の手を取り、指を絡めた。
腰を押し進めると、狭い場所が先端を少しずつ呑み込んだ。準備をしたつもりでも、彰人のものを受け入れるには足りないのか、朔の指に強い力が入る。
彰人はすぐに止まった。
「痛いな」
「少しだけ。動かなければ慣れる」
「戻すか」
「やめないで」
朔の脚が、彰人を逃がさないように腰に絡んだ。
そのまま待っていると、強張っていた内側が少しずつ緩む。朔が息を吐き、繋いだ手に入っていた力を弱めたところで、また僅かに進んだ。何度も止まりながら根元まで収まると、彰人も深く息を吐いた。
熱かった。
コンドーム越しでも分かるほど柔らかな内側が、脈打ちながら彰人を包んでいる。目の前には朔の顔があり、唇は浅い呼吸に合わせて開き、目尻には滲んだ涙が一筋残っていた。
彰人はそれを親指で拭った。
「痛いか」
「ちょっと。でも、嫌じゃない」
「動くぞ」
初めは、ほんの僅かに腰を引いた。朔の表情が変わらないことを確かめ、同じだけ戻す。何度か繰り返すうちに、内側の抵抗が減り、朔の呼吸が痛みを堪えるものから別の熱を含んだものに変わっていく。
彰人は深く突かず、指で触れた時に朔が感じていた場所を探すように角度を変えた。
「あ……そこ」
掠れた声が上がる。
「ここか」
「うん。もう一回」
言われた場所に同じ速さで届くように腰を動かす。抜くたびに狭い内側が彰人を追い、戻るたび、朔の喉から短い声が零れた。
「気持ちいい……高瀬さん、そこ、気持ちいい」
何度も繰り返される言葉には、媚びる甘さがなかった。朔は目を閉じず、彰人を見ている。誰に触れられているのかを確かめるように、繋いだ手を放そうとしなかった。
彰人は身を屈め、唇を重ねた。
動くたびに口づけがずれ、歯が触れる。それでも朔は笑わず、自分から舌を伸ばした。彰人の肩に腕を回し、胸を密着させる。汗ばんだ肌と肌が擦れ、呼吸も鼓動も、どちらのものか分からないほど近くなった。
「藤代」
呼ぶと、朔の目が開いた。
「何」
「呼んだだけだ」
「もう一回、呼んで」
「藤代」
そのたび、朔は確かに振り向くように彰人を見た。
少しずつ腰の動きを深くする。朔の体が揺れ、腹の上で性器が硬く跳ねた。彰人が手を添えると、朔は苦しそうに眉を寄せながら、もっと触れてほしいと自分から掌に擦り寄せる。
「高瀬さん、俺、これ……」
「どうした」
「いきそう。中、触られながらなんて、初めてで……」
「我慢するな」
「でも、まだ」
「お前が気持ちいいなら、それでいい」
奥に届く角度を崩さず、朔の性器を根元から先端まで撫で上げる。朔の声が一段高くなり、彰人の肩に爪が食い込んだ。
「あ、待って、無理……気持ちいい、彰人さん……っ」
初めて名前で呼ばれた。
次の瞬間、朔の体が強く震え、腹の上に白いものが何度も散った。内側も彰人を締めつけ、腰を止めても細かな収縮が続いている。
朔は声を抑えることも忘れ、余韻が過ぎるまで彰人の肩に縋っていた。
その姿に堪えきれなくなり、彰人も数度、深く腰を動かした。
「痛かったら言え」
「大丈夫……きて」
朔の腕が首に回る。
彰人はその体を抱き締め、最後まで乱暴に突かないよう動きを抑えた。熱が限界まで高まり、腹の奥からせり上がったものをコンドームの中に吐き出した。朔の首筋に顔を埋めても、そこに線香の匂いはなかった。汗と石鹸と、今しがた抱いた生きた体の匂いだけがした。
しばらく、どちらも動けなかった。
彰人は荒い息を整えながら、朔の胸に耳を寄せた。速い鼓動が皮膚の下から伝わってくる。朔は生きている。誰かの手で確かめなくても、この体は初めから熱を持ち、息をし、彰人の腕の中で脈打っていた。
ゆっくり体を離すと、朔が小さく顔を歪めた。
「痛いか」
「抜ける時、少し」
「待て」
入口に手を添え、急がず抜いた。コンドームを外して口を縛り、用意していたティッシュに包む。彰人がベッドを降りると、朔も起き上がろうとした。
「どこに行く」
「シャワー。シーツも汚したから、替えないと」
「お前は疲れているから、寝ていていい」
「でも」
「いいから横になれ」
肩を押す手は、先ほど寝室に連れてきた時とは違う。朔は戸惑いながらも、枕に頭を戻した。
彰人は洗面所からぬるま湯と柔らかなタオルを持ってきた。まず腹に残ったものを拭き、腿、腰と汗を取り除く。最後に脚の間に触れると、朔が反射的に膝を閉じかけた。
「痛むか」
「違う。自分でやる」
「見えにくいだろ」
「こういうの、してもらったことないから」
「なら今は任せろ」
赤くなった入口を擦らないよう、濡らしたタオルを押し当てる。ローションを丁寧に拭い、出血がないことを確かめた。朔は天井を見たまま、彰人の手が動くたび落ち着かないように指を握ったり開いたりしている。
「明日、痛みが強かったら言え」
「このくらいなら平気だと思う」
「思う、ではなく、痛ければ言え」
「分かった」
タオルを片づけ、冷蔵庫から水のボトルを持って戻る。朔をゆっくり起こし、蓋を開けて渡した。
「飲め」
「高瀬さんも飲んだ方がいいんじゃない」
「あとで飲む」
「一緒に飲めばいいだろ」
彰人はもう一本を取りに行き、ベッドの端に座った。朔は水を半分ほど飲むと、ボトルを胸の前に抱えたまま横になる。
「こんなの、知らなかった」
「何がだ」
「セックスのあとって、すぐに帰るか、相手を帰すものだと思ってた。シャワーを借りても、朝までいても、終わったらもう別だろ」
眠気の混じった声が、静かな寝室に落ちる。
「気持ちいいのも、俺がそういうふりをするものだと思ってた。相手が俺の声を聞いて、満足して、それで終わり」
彰人は何も言わず、朔の手から落ちかけたボトルを取り、ベッド脇のテーブルに置いた。
「あんなセックスされたら、高瀬さんから離れらんなくなる」
朔の目は半分閉じていた。
「また触ってほしくなる。ほかの男じゃなくて、高瀬さんがいいって、思うようになる」
それは彰人が欲しかった言葉のはずだった。
知らない男のところに行かないでほしい。自分が帰る部屋にいてほしい。朔の声も、熱も、触れられた時に見せる顔も、ほかの誰にも渡したくない。そう望み、衝動のまま抱いた。
実際に朔を腕の中に収めると、想像していた以上に深く満たされた。男を抱くことに対する戸惑いも、初めて触れる体への不安も、朔が自分の名を呼んだ瞬間には何も残っていなかった。
その幸福を受け取る資格が、自分にはない。
それでも幸福だと感じた自分を、彰人は嫌悪した。
彰人だけが、朔の過去を知っている。晴希の兄であることを隠し、五年前の事故を調べるために近づいた。その真実を伏せたまま、朔が初めて自分の意思で差し出したものまで受け取った。
「高瀬さん」
朔が眠りかけた声で呼ぶ。
彰人は返事をしなかった。
代わりに薄い毛布を掛け、汗で額に張りついた栗色の髪を指で払った。朔はその手に僅かに頬を寄せたあと、ゆっくり目を閉じる。
窓の外では、どこかの家で焚かれた火の匂いが、夜風に乗って微かに漂っていた。
死者が帰るとされる盆の夜に、彰人は死んだ弟の名を抱いたのではない。
何度も藤代と呼び、そのたび自分を見た、生きている男を抱いた。
それでも自分の名に繋がる過去も、彰人が何者であるかも知らない朔の寝顔を見ていると、自分の方が死者の影に隠れたように思えた。
楽しんでいただけたら、気軽に反応を送ってください。