目を覚ました時、朔は一人でベッドにいた。
薄いカーテンを透かした朝の光が、見慣れない角度から顔に当たっている。体に掛けられた毛布は腰のあたりまでずれ、隣のシーツには、誰かが横になった跡らしい浅い皺だけが残っていた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
知らない男の部屋で朝を迎えることには慣れている。目を開ける前に、前夜の相手と場所を思い出し、余計なものに触れないように起き上がり、求められない限りは言葉も交わさず出ていく。それがいつもの朝だった。
けれど、ここは知らない部屋ではない。
壁際に置かれた本棚も、窓のそばに立つ濃い色のカーテンも、ベッド脇のテーブルに並んだ二本の水も知っている。片方のボトルは半分ほど減っており、もう片方は蓋が開けられたまま、手を伸ばせば届くところに置かれていた。
昨夜、彰人が用意したものだった。
記憶が繋がると、体のあちらこちらに残る感覚まで急に鮮明になった。唇には何度も口づけられた熱があり、腰から腿にかけては重い疲労が残っている。体の奥に僅かな痛みはあったが、これまで雑に抱かれた翌朝に覚えたものとは違っていた。無理に広げられた傷の痛みではなく、時間をかけて触れられ、自分から彰人を受け入れたことを思い出させる鈍い感覚だった。
気持ちよかった。
その言葉を頭の中に浮かべただけで、頬のあたりが熱くなる。
セックスが本当に気持ちいいものだと、二十二歳になって初めて知った。相手が満足したかどうかではなく、自分の体が何を感じているのかを考え、もっと触れてほしいと口にした。声も表情も作る余裕をなくし、最後には彰人の名まで呼んだ。
行為のあとには、離れたくないとも言った。
そこまで思い出したところで、朔は毛布を頭まで引き上げた。
眠気の中で口にしたことは、どこまで彰人に聞かれていたのだろう。あんなふうに抱かれたら離れられなくなる。また触ってほしくなる。朔自身、昨夜までは知らなかった望みを、何ひとつ隠さず曝け出した気がする。
それでも、後悔はなかった。
彰人に抱かれたことを、一度きりの間違いにしたくない。次は自分から触れたい。あの大きな手が自分のために動き、口づけの合間に低い声で自分の名を呼ぶのを、もう一度聞きたかった。
居間の方から、食器の触れ合う音がした。
彰人は起きている。
朔は毛布から顔を出し、床に落ちていたTシャツに手を伸ばしかけた。昨夜脱いだ服をそのまま着ることに少し抵抗があり、彰人がベッドの脇に畳んで置いていた部屋着を借りた。肩も袖も朔には大きく、裾は腿の半ば近くまであった。
寝室を出ると、彰人は台所に立っていた。
既にワイシャツとスラックスに着替え、味噌汁の鍋を火に掛けている。テーブルには焼いた鮭と卵焼き、胡瓜の浅漬けが二人分並び、炊飯器からは炊きたての米の匂いが漂っていた。
いつもの朝だった。
「起きたか」
彰人は鍋の火を弱め、朔を見た。その視線が、借りた部屋着に一度だけ落ちた。
「体はどうだ。痛みはないか」
「少しだけ。でも、平気」
「強くなるようなら言え。出血は」
「ないと思う」
「思うではなく、あとで確認しろ」
それだけ言うと、彰人は椀に味噌汁をよそった。
昨夜の気まずさを持ち込まないようにしているのかもしれない。朔が恥ずかしがると思い、普段どおりにしている可能性もある。そう考えながら椅子に座ったが、彰人は朝食の間も、今日の仕事はあるのか、帰りは何時頃になるのかと、毎朝しているのと同じことしか尋ねなかった。
朔の方から昨夜の話を持ち出すこともできなかった。
自分を抱いてどうだったのか。また触れたいと思ったのか。あの男のところへ行かせたくないと言ったのは、朔をほかの男に渡したくないという意味だったのか。
どれも、口にすれば答えを求めていることが明らかになる。
これまでなら、相手の気持ちなど知ろうともしなかった。次に誘われれば応じ、連絡がなければそれきりでいい。求められている間だけ相手の望むものになり、終われば何も持ち帰らない。その方が楽だった。
彰人に対しては、同じようにできなかった。
「今日は休みだったな」
「うん」
「無理に外へ出るな。今日も三十八度まで上がるらしい。……夏は嫌いだ」
「高瀬さんは?」
「仕事だ」
「知ってる。何時に帰るの」
彰人は少しだけ考えた。
「分からない。盆の依頼が重なっている。遅くなるなら連絡する」
「夕飯、作って待ってる」
「体が痛むなら寝ていろ」
「痛くないって」
少し強く返すと、彰人は黙った。朔の顔を見たあと、手元の味噌汁に視線を落とす。
「無理はするな、藤代」
呼ばれた瞬間、胸の内側が僅かに温かくなった。
ただの名字だった。役所でも病院でも、日雇いの現場でも使う、自分のものらしい名前である。以前は呼ばれても、自分と同じ名字の誰かが近くにいるのだと思うことがあった。彰人から繰り返し聞くうちに、今では考えるより先に、自分へ向けられた声だと分かるようになった。それでも、藤代朔になったつもりはない。
それなのに昨夜、触れるたびにその名を聞かされた時には、ほかの誰でもなく自分だけを求められていると思った。
同じ呼び方なのに、今朝はさらに違って聞こえる。
朔は返事の代わりに頷き、卵焼きを口に入れた。
甘さのあとに、出汁の味がした。
彰人は、昨夜のことなどなかったように仕事に出た。
玄関まで見送ると、彰人はいつものように、戸締まりをすることと、外へ出る時には連絡することを念押しした。朔が返事をすると、彰人は一瞬、何かを言いかけた。それでも結局は「行ってくる」とだけ告げ、扉の向こうへ姿を消した。
部屋には、朔一人が残された。
居間のソファの前には、昨夜敷かなかった布団が畳まれている。寝室のベッドには二人で眠った跡が残っていたが、彰人はシーツを替えろとも、そのままでいいとも言わなかった。
朔は朝食の食器を洗い、洗濯機を回した。彰人から借りた部屋着を脱ぐ前に、もう一度だけ袖に顔を寄せる。洗剤と、僅かに彰人の匂いがした。
自分が彰人に惹かれているのだと、認めるしかなかった。
食事を用意してくれるからでも、眠る場所を貸してくれるからでもない。彰人が帰れば安心し、遅ければ時計を見る。自分以外の死者の話をしている時でさえ、その低い声を聞いていたいと思う。昨夜、知らない男のもとへ行くなと引き留められた時には、怒るより先に嬉しかった。
彰人も、自分を特別に思っている。
そうでなければ、あんな顔で電話を切ることも、ほかの誰でもなくお前を抱きたいと言うこともないはずだった。朔の体を気持ちよくするためだけに時間をかけ、終わったあとまでそばにいる必要もない。
だからこそ、何もなかったように出ていった彰人の気持ちが分からない。
男を抱いたのが初めてだったから、朝になって後悔したのだろうか。朔が思ったよりも簡単に縋り、面倒になったのかもしれない。あるいは、知らない男に触れさせないという目的を果たしただけで、もう一度抱きたいほどではなかったのか。
洗濯機の中で水が回り始める。
低い音を立てて衣類を呑み込む水を見ているうちに、頭の奥で、別の水音が重なった。
川だった。
薄茶色に濁った水が、普段より高いところまで迫っている。東屋の屋根を打っていた雨は止んでいるのに、木々の葉から落ちる雫が絶え間なく水面を叩いていた。
誰かの声がする。
まだ成人していない、苛立ちを含んだ少年の声だった。
『彰人はもう高瀬だから』
朔は咄嗟に洗濯機に手をついた。
水音が遠ざかり、目の前には透明な蓋の中を回る衣類だけが残る。膝から力が抜けそうになり、洗面台の縁に腰を預けた。
今のは、夢ではない。
五年前の川だと思った。そう判断できる理由は分からないのに、喫茶店で水に浸かる感覚が蘇った時と同じように、体の方がその場所を知っている。
彰人。
少年は確かにそう言った。
今の彰人と、記憶の中で少年が口にした彰人が同じ人間なのかは分からない。珍しい名前ではないが、どこにでもいるほど多くもない。高瀬という姓まで重なっているなら、偶然ではない可能性がある。
それでも、声の主が誰だったのかを思い出せなかった。
顔も見えない。なぜ川沿いの東屋にいたのかも、誰のことを話していたのかも分からない。ただ、彰人はもう高瀬だから、という短い言葉だけが、水の音とともに頭の中に残った。
朔はスマートフォンを手に取った。
仕事中の彰人に、過去に会ったことがあるかもしれないと伝えることはできる。けれど、何も確かではないまま話せば、彰人は詳しく尋ねるだろう。どこで、誰から、何を聞いたのかと問われても、今の朔には答えられない。
それに、彰人が何かを知っていたとしても、向こうから話すつもりがないことは分かっていた。
墓地で初めて会った時から、彰人は時々、朔の向こうに別の誰かを見る。死者の名を使うなと何度も怒りながら、その死者との関係を尋ねても答えない。盆に誰の墓へ行ったのかも、夏を嫌う理由も話そうとしない。
彰人には秘密がある。
朔はメッセージの画面を閉じた。
曖昧な記憶を差し出して彰人の秘密だけを聞き出すより、自分が何を思い出したのかを先に確かめたかった。
その夜、彰人が帰宅したのは十時を過ぎてからだった。
連絡を受けていたため、夕食は冷蔵庫に入れてある。玄関を開けた彰人は、朝と同じワイシャツを着ていたが、襟元は汗で僅かに色を変え、体にはまた線香の匂いが染みついていた。
「おかえり」
「ただいま。起きていたのか」
「まだ十時だよ」
「体は」
「もう平気」
彰人は朔の顔を見ただけで、昨夜のことには触れなかった。
彰人は温め直した夕食を食べ、シャワーを浴び、寝る支度をした。食事中には今日訪ねた家の盆提灯が風で倒れかけたことや、会社の冷房が追いつかないほど人の出入りが多かったことを話した。彰人は朔の作った茄子の煮浸しを残さず食べ、味が濃すぎなかったかと尋ねれば、ちょうどいいと答えた。
すべて、あの電話が鳴る前までと同じだった。
彰人が寝室へ入る頃、朔は居間のソファの前に布団を敷いた。
一度は同じベッドで裸になり、互いの熱が分からなくなるほど近くにいたのに、眠る場所だけが元に戻っている。彰人は朔にベッドで寝ろとも、寝室へ来いとも言わなかった。
扉が閉じる前に、朔は声をかけた。
「高瀬さん」
彰人が振り返る。
「昨日のこと、後悔してる?」
尋ねるつもりはなかった。けれど、このまま何日も何も言われないことの方が耐えられなかった。
彰人の表情が固くなる。
「していない」
「じゃあ、何で何も言わないの」
「何を言えばいい」
「それも俺に聞くの?」
朔は笑おうとしたが、うまくできなかった。
「またしたいとか、昨夜だけだとか。俺があんなこと言って、困ったとか」
「困ってはいない」
「それなら、また触ってくれる?」
彰人は答えなかった。
欲しくないのなら、そう言えばいい。彰人は朔の体を使うために嘘をつくような男ではない。少なくとも昨夜までは、そう思っていた。
沈黙が長くなるほど、拒まれたのと同じことのように感じられた。
「分かった。もう聞かない」
「藤代」
「おやすみ」
背を向け、布団に横になる。彰人はしばらく扉の前に立っていたが、やがて何も言わないまま寝室へ入った。
扉の閉まる音は小さかった。
それでも朔には、二人の間に固い板を差し込まれたように聞こえた。
盆の終わりが近づいても、彰人の帰宅は遅いままだった。
盆の法要や供物の手配に加え、連日の猛暑で亡くなる人が増えているという。彰人は詳しいことを話さなかったが、朝に届いた訃報を受け、夜にはその家の枕飾りを整えて帰ってくる日もあった。
遅い夕食を取りながら、朔はテレビの天気予報を見た。画面の中では日本列島のほとんどが赤く塗られ、明日も命に関わる暑さになると繰り返している。
「人って、暑いだけでも死ぬんだな」
「高齢者や持病のある人だけではない。水分を取らずに働き続ければ、若くても危ない」
「俺も一回倒れたしね」
「一回で済んだと思うな。明日も外の仕事なら、休憩を取れ」
「分かってる」
彰人は念を押すように朔を見たあと、麦茶を飲んだ。黒いシャツの袖を肘まで捲っている。盆に入ってから食欲が落ちているらしく、普段なら残さない飯が茶碗に少し残っていた。
「高瀬さんの方が倒れそう」
「俺は慣れている」
「そういうの、倒れる人が言うやつだろ」
朔は自分の皿に残っていた冷や奴を半分、彰人の小皿へ移した。
「食べて」
「お前が食べろ」
「俺は昼に弁当二つ食った。高瀬さんは?」
「移動の途中で食べた」
「何を」
答えないところを見ると、まともな食事ではなかったのだろう。朔が箸で冷や奴を指すと、彰人は諦めたように口へ運んだ。
こういうことをするたび、自分たちが何なのか分からなくなる。
恋人ではない。彰人はあの夜のことを後悔していないと言いながら、朔にもう一度触れたいとは答えなかった。それでも帰宅が遅くなれば必ず連絡があり、朔が作った夕食を食べ、体調を気に掛ける。朔も、彰人が帰るまで起きて待ち、食事を用意し、疲れた顔をしていれば少しでも食べさせようとする。
夏の間だけ同じ部屋で暮らしている他人としては、互いの生活に入り込みすぎていた。
「夏、嫌いなんだよね」
以前に聞いた言葉を思い出し、朔は尋ねた。
「忙しいから?」
彰人の箸が止まった。
「それもある」
「ほかにもあるんだ」
「ある」
「何?」
彰人は答えず、麦茶のグラスを持った。表面についた水滴が、大きな指を伝ってテーブルへ落ちる。
「俺が夏を嫌いなのは、おかしいか」
「おかしくない。ただ、理由を知りたかっただけ」
「知ってどうする」
「高瀬さんのこと、俺は何も知らないから」
彰人の目が上がった。
墓地で会った頃には、相手の過去など知る必要がないと思っていた。どこで生まれ、どんな家族がいて、何を好きになり、何を嫌いになったのか。それらを知ってしまえば、別れる時に持っていくものが増える。
今は、知りたかった。
彰人が夏を嫌うようになった理由も、誰の墓へ行ったのかも、黙り込む時には何を考えているのかも知りたい。自分の知らない五年前に、彰人という名を口にした少年のことも。
「俺のことは、話せるものがない。でも、高瀬さんにはあるだろ」
「今、話せることはない」
きっぱりと答えられ、朔はそれ以上尋ねなかった。
彰人は嘘をついているわけではない。けれど、話せないのではなく、話さないことを選んでいる。その選択の外に自分が置かれているのだと思うと、昨夜よりも冷たいものが胸の奥に残った。
食事を終え、彰人が食器を洗った。朔はテーブルを拭きながら、台所に立つ背中を見ていた。
広い肩にも、捲った袖から伸びる腕にも、今夜は触れられない。それでも離れたくないと思っている自分の方が、先に彰人を特別にしてしまったらしい。
盆の最終日、日が沈む頃になると、町のあちらこちらから煙の匂いが漂い始めた。
仕事を終えて駅から歩く途中、家の前に小さな|焙烙《ほうろく》を置き、折った|麻幹《おがら》に火をつけている家族を見かけた。橙色の炎は夕闇の中で揺れ、子どもが近づきすぎないよう、隣にいた大人が肩を抱いている。
迎えた死者を、今度は向こう側へ送り返す火だと彰人から聞いていた。
この数日、彰人の服から嗅いでいた線香の匂いと、家々の前から上がる煙の匂いが、朔の中で重なった。蝉の声はまだ絶えないのに、日が落ちる時刻だけは七月より僅かに早くなっていた。
死んだ人間は、帰る場所を迷わないのだろうか。
墓に帰るのか、生前に暮らした家へ帰るのか、それとも迎えてほしい人間のいる場所を自分で選べるのか。名前だけを覚え、顔も声も失った人間のところへも、誰かは帰ってくるのだろうか。
三枝晴希という名を思い浮かべても、朔の中には何も浮かばない。
以前は、それでも自分の名前だと思うことができた。自分の中に初めからあった唯一の言葉だから、ほかに何もなくても、それだけは自分のものだと信じた。
今は、晴希と聞けば彰人が顔を強張らせる様子を思い出す。その名前には自分ではない誰かの人生があり、彰人が話そうとしない過去と繋がっている。死者から借りたものだと知ってしまった名を、自分のものだと思い続けることは、少しずつ難しくなっていた。
代わりに、藤代という名が彰人の声で残る。
食事をしろと呼ぶ時。帰宅が遅い理由を尋ねる時。痛ければ言えと念を押す時。あの夜、触れるたびに自分だけを見て呼んだ時。
まだ、自分の名字だと完全に馴染んだわけではない。藤代朔と口にすれば、知らない男の名を借りているような感覚は残る。それでも彰人に呼ばれることには、もう抵抗も違和感もなかった。
彰人が藤代と呼ぶ時、それが自分を指す言葉だと知っているからだった。
それだけで、今は十分な気がした。
部屋に戻ると、彰人はまだ帰宅していなかった。遅くなるという連絡は入っている。朔は一人分の夕食を先に済ませ、彰人の分を冷蔵庫へ入れた。
居間の窓から、遠くに送り火らしい明かりが見えた。
向かいの建物の隙間に、小さな赤い点が見えた。風に揺れるたび、暗くなったり、また明るくなったりした。やがて炎が消えると、残った煙だけが夜の中へ薄く広がった。
日付が変わる前に彰人は帰宅した。
疲れてはいたが、先にシャワーを浴び、朔が用意した夕食を食べた。食事の途中で仕事の電話が入り、食べ終えるまでにいつもより時間がかかった。片づけを終えた頃には、彰人の目元にも濃い疲労が浮かんでいた。
「もう寝た方がいいよ」
「お前もだ」
「俺、明日は昼からだから」
「なら、なおさら夜更かしするな」
彰人は居間の冷房を見上げ、設定温度を一度下げた。
「今夜も暑い。切らずにつけておけ」
「高瀬さんは?」
「寝室にもある」
「そうじゃなくて」
続きを言う前に、彰人がこちらを見た。
朔は何でもないように肩を竦めた。
「おやすみ」
「おやすみ、藤代」
寝室の扉が閉まる。
朔は居間のソファの前に布団を敷き、明かりを消した。冷房の風が直接当たる位置を避けて枕を動かし、薄いタオルケットを腹に掛ける。目を閉じても、隣の部屋にいる彰人の気配ばかりを意識した。
冷房をつけたままにしておけと言われたが、低い運転音と肌を撫で続ける風が落ち着かず、一時間ほどして切った。
静かになったのは初めだけだった。
冷気が失われると、閉め切った居間にはすぐに熱が戻った。窓の向こうでは室外機の音が重なり、熱帯夜の空気そのものが建物を包んでいるようだった。首筋に汗が滲み、タオルケットを退けても眠れない。
冷房をつけ直せばいい。
枕元に置いたリモコンへ手を伸ばしながら、朔は動きを止めた。
本当に暑さだけが理由なら、それで済む。けれど今夜、寝室へ行く理由がひとつでもあるなら、暑さを使ってしまいたかった。
彰人のそばにいたい。
あの夜のことをなかったものにされたくない。もう一度抱かれなくても、同じ部屋で眠りたかった。
朔は起き上がり、寝室の前に立った。
一度目は、指を曲げただけで扉に触れられなかった。彰人が眠っているなら起こさない方がいい。迷惑だと思われれば、居間へ戻ればいい。そう考えている間にも、額から汗が落ちた。
朔は初めて、自分から寝室の扉を叩いた。
「高瀬さん、起きてる?」
少し間があり、内側から低い声が返る。
「どうした」
扉が開くと、彰人はまだ眠っていなかった。Tシャツと短パンを身につけ、片手には読みかけの本を持っている。寝室には冷房が効き、開いた扉から流れ出た空気が、汗ばんだ肌に心地よかった。
「居間、暑くて寝られない」
「冷房はどうした」
「切った」
「つけておけと言っただろう」
「風がずっと当たるの、落ち着かないんだよ。ここ、床に布団敷くのでもいいから、いさせてくれない?」
彰人はすぐには答えなかった。
朔の後ろにある居間を見て、それから寝室の床へ視線を落とす。ベッドと壁の間には人一人が横になれる程度の場所はあるが、布団を敷けば扉が半分しか開かなくなる。
「床で寝る必要はない。ベッドを使え」
「高瀬さんは?」
「俺が床で寝る」
「それなら居間と同じだろ」
「何がだ」
「一緒にいたいって言ってる」
口にすると、彰人の目が僅かに見開かれた。
朔はもう誤魔化さなかった。
「暑いのは本当。でも、冷房つけ直せば済むのも分かってる。それでも、ここに来たかった」
彰人の喉が動く。
「俺のそばにいて、どうする」
「何もしなくてもいいよ」
そう答えたあと、朔は少し笑った。
「できれば、何かしてほしいけど」
「藤代」
「嫌ならいい。ベッドだけ借りる」
彰人は長く息を吐き、扉を大きく開いた。
「入れ」
寝室に入り、朔はベッドの端に腰を下ろした。あの夜と同じシーツは、翌日のうちに自分で洗って掛け直してある。彰人は本を閉じ、ベッド脇のテーブルに置いた。
「お前がベッドを使え。俺は下でいい」
「一緒に寝られないほど狭くないだろ」
「あの夜は、眠るために入ったわけじゃない」
「最後は寝たよ」
彰人は答えなかった。
朔は壁際へ体を寄せ、空いた場所を軽く叩いた。
「高瀬さんが嫌じゃないなら、ここで寝て」
しばらく迷ったあと、彰人はベッドに腰を下ろした。
たったそれだけのことで、朔の胸が軽くなる。彰人が明かりを消し、二人で横になると、肩が触れない程度の隙間が残った。冷房の運転音が静かに続き、暗闇の中で互いの呼吸だけが近く聞こえる。
朔は横を向いた。
暗さに目が慣れると、仰向けになった彰人の輪郭が見えた。彰人は目を閉じず、天井を見つめていた。
「高瀬さん」
「何だ」
「キスして」
彰人の呼吸が一度止まった。
「何もしなくてもいいと言っただろう」
「できればしてほしいとも言った」
「そういう意味で寝室に入れたんじゃない」
「キスだけでも駄目?」
返事をしないまま、彰人が朔の方を向いた。
近づいた顔は、あの夜よりよく見えない。それでも頬に触れた手の熱と、迷うように動いた指先が分かった。
やがて唇が重なる。
ほんの僅かに触れ、すぐに離れるだけの口づけだった。
朔は彰人のTシャツを掴んだ。
「これだけ?」
「寝ろ」
「あの夜は、もっとした」
「分かっている」
「俺に触りたくない?」
彰人の手が頬から離れかける。朔はその手首を掴み、逃がさなかった。
暗闇の中でも、彰人の瞳に熱があることは分かった。朔の唇を見たあと、視線が首筋へ落ち、Tシャツの襟元で止まる。触れたいと思っていない人間の目ではない。
それなのに彰人は、自分から手を引いた。
「触れたくないわけではない」
「じゃあ、何で」
「今はできない」
「俺が嫌だから?」
「違う」
同じ答えばかりだった。
後悔していない。困ってもいない。嫌ではない。触れたくないわけでもない。それでも、なぜ拒むのかだけは話さない。
朔は彰人の手首を放した。
「高瀬さんのこと、ますます分かんなくなった」
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
背を向けようとすると、彰人の手が髪に触れた。
引き留めるほど強くはなく、栗色の髪を一度撫でただけで離れる。その中途半端な優しさが、拒絶よりも苦しかった。
朔は彰人のTシャツの袖を指先で摘まんだ。
彰人はそれを振りほどかなかった。
何もないまま夜は過ぎた。けれど隣にある体温と、一定の間隔で聞こえる呼吸に包まれていると、居間で一人だった夜よりも深く眠ることができた。
翌朝、枕元の目覚まし時計が鳴ると、彰人はすぐに起きた。
窓の外はまだ白み始めたばかりだった。彰人は朔を起こさないよう音を立てずにベッドを出た。朔も目を覚ましていたが、目は開けなかった。
クローゼットの扉が開く音がし、やがて寝室の扉が静かに閉じた。洗面所から聞こえてきた水音は、しばらくすると食器の触れ合う音に変わった。それらを遠くに聞きながら、朔は浅い眠りを行き来した。
出勤の支度を終えた頃、居間で彰人のスマートフォンが鳴った。
彰人が低い声で電話に出る。
「はい、高瀬です」
聞き慣れた声だった。
毎朝、仕事の連絡に応じる時と同じ、短く明瞭な名乗りである。
その声に、別の声が重なった。
『彰人はもう高瀬だから』
水の音がした。
東屋の軒から落ちる雫と、すぐそばを流れる川の音だった。湿った木のベンチに、二人の少年が座っている。隣には、制服のシャツを肘まで捲った少年がいた。
濡れた前髪の下に、苛立った目がある。
その顔を、朔は知っていた。
『それでもお前の兄貴だろ』
声を出したのは自分だった。
十七歳の藤代朔が、隣に座る少年に言っている。
『何年も顔見てないし』
『それでも今、帰ってきてるなら相談した方がいい』
少年は顔を背けた。
その横顔に、墓石に刻まれていた名が重なる。
三枝晴希。
記憶の中の少年は、死者の名を持ちながら、濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げ、確かに息をしていた。
彰人はもう高瀬だから。
それでもお前の兄貴だろ。
晴希が母親と同じ三枝を名乗り、兄が高瀬を名乗っていることを、自分は知っていた。
彰人。
晴希がそう呼んでいた兄の名だった。
居間では、電話を終えた彰人が寝室へ戻ろうとしている。扉の向こうから足音が近づき、ドアノブが動いた。
朔はベッドの上で目を開けた。
入ってきた男の顔を見た瞬間、五年間、別々の場所に沈んでいた二つの名前がひとつに繋がった。
――高瀬彰人は、三枝晴希の兄だ。
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