寝室の扉が開き、彰人が入ってきた。
仕事の電話を終えたばかりらしく、片手にはまだスマートフォンを持っている。既にワイシャツと黒いスラックスに着替え、ベルトも締めていた。ベッドの上で目を開けている朔を見ると、僅かに足を止める。
「起きていたのか」
聞き慣れた低い声だった。
毎朝、自分を起こし、食事をしろと呼び、帰宅が遅ければ理由を尋ねる声である。その声と、扉の前に立つ男の顔を、朔は知っている。
今より少し若い顔だった。
白い天井から、朝なのか夜なのかも分からない光が落ちている。消毒薬の匂いが鼻の奥に残り、体のあちらこちらが、自分のものではないように重かった。少し動くだけで腕へ繋がれた点滴の管が引かれ、乾いた喉から息が漏れる。
ベッドの脇に、彰人が立っていた。
黒い服を着ていた。喪服だったのかもしれない。けれど記憶の中の朔には、その意味を考える余裕がなかった。ただ、自分を見下ろす男の目が、病室のどこよりも冷たかったことだけを覚えている。
『お前が殺したのか』
彰人の唇が動いた。
『違うなら、どうしてあんなことを言った』
何を尋ねられているのか分からなかった。答えようとしたのかもしれない。けれど声は出ず、彰人がもうひとつの言葉を突きつけた。
『お前が言ったんだ。俺は晴希を殺したって』
白い光が揺れた。
彰人の顔も、病室の壁も、水の底から見上げているように歪んで遠ざかる。耳の奥で川の音がしていた。
「藤代」
現在の声に呼ばれ、朔は息を吸った。
寝室には朝の光が差し込み、冷房の運転音が静かに続いている。腕に管はなく、体に残っているのは、あの夜に彰人から与えられた熱と、昨夜同じベッドで眠った温もりだけだった。
彰人が一歩近づく。
「どうした。顔色が悪い」
「高瀬さん、三枝晴希のお兄さんなんだね」
彰人の足が止まった。
驚いた顔はしなかった。何かを恐れていた人間が、ついにその時を迎えたように、手にしていたスマートフォンをゆっくり下ろす。
「……思い出したのか」
否定しなかった。
それだけで、先ほどまでなら疑う余地のあった記憶が、動かしようのない事実になる。
「少しだけ。川沿いの東屋で、晴希と話したこと。晴希が、高瀬さんのことを彰人って呼んでた」
「ほかには」
「今、病院のことも思い出した」
彰人の表情が僅かに強張った。
「俺に、お前が殺したのかって聞いた」
「ああ」
「俺が晴希を殺したって言ったの」
「救助された直後、お前は何度もそう言っていた。俺も聞いた」
彰人の返事は短く、言い逃れを探す様子もなかった。
朔は掛け布団の上で指を握った。水の中で誰かの腕を掴んだ感触は、以前から時折夢に現れた。しかし、その相手が晴希だったのか、なぜ二人で川へ落ちたのかは思い出せない。自分が殺したという言葉も、今の記憶にはなかった。
「本当に、俺が殺したの」
「警察は事故だと判断した」
「高瀬さんは、そう思わなかったんだろ」
彰人は答えなかった。
その沈黙を、朔はこの部屋で何度も見てきた。尋ねられたことに嘘はつかない代わりに、都合の悪い部分だけは口にしない。以前は、それでも彰人は不器用なだけなのだと思っていた。
今は、沈黙の向こうに何が隠れているのか分かる。
「墓で会った時から、俺が誰か知ってた?」
「知っていた」
「藤代朔だってことも?」
「ああ」
「俺が何も覚えてないのも知ってた」
「記憶を失ったとは聞いていた。だが、実際に会うまで、どこまで本当なのかは分からなかった」
「嘘かもしれないと思ってたんだ」
「その可能性は疑っていた」
朔は笑おうとした。
唇が動いただけで、声にはならなかった。
彰人は初めから、自分を知っていた。墓石の日陰で倒れかけていた時も、喫茶店でこれまでの暮らしを尋ねた時も、図書館で五年前の記事を見せた時も、目の前にいる人間が晴希と一緒に川へ落ち、生きて戻った藤代朔だと分かっていた。
分かっていて、知らないと言った。
「それで、俺に近づいたの」
「晴希の死について、何か覚えていないか確かめようと思った」
「記憶を探すのを手伝うって言ったのも、俺のためじゃなかった?」
「最初は違った」
「じゃあ、部屋に置いたのも、何か思い出すか見張るため?」
彰人はすぐには答えなかった。
「……最初は、そのつもりだった」
最初は。
その言葉が、朔の胸の内側へ引っかかった。
「いつから違ったの」
彰人の目が揺れる。
「俺が倒れて病院に連れていった時? 荷物を持ってきた時? 毎日飯を作ってくれるようになった時?」
「藤代」
「あの夜には、もう違った?」
彰人が息を止めた。
朔はベッドの上で身を起こした。彰人から借りた部屋着の襟元から、彰人に何度も口づけられた肌が覗く。あの夜にこの場所で何をしたのか、彰人も忘れてはいないはずだった。
「高瀬さんは、俺が誰か知ってた。俺が晴希を殺したかもしれないって思いながら、何も知らない俺を抱いたんだ。俺に、復讐したかった?」
「違う」
「じゃあ、何で」
彰人の唇は動かなかった。
体に触れられた時には、あれほど何度も名前を呼ばれた。どこが痛むのか、何をすれば気持ちがいいのか、声にしなくても分かろうとするように見つめられた。終わったあとには体を拭き、水を飲ませ、眠るまで隣にいた。
その男が、今は何も答えない。
「知らない男のところに行かせたくないって言ったよね。ほかの誰でもなく俺を抱きたいって」
「言った」
「俺が高瀬さんを選んだと思った?」
「……ああ」
「選べるわけないだろ。俺は高瀬さんが誰か知らなかったんだから」
彰人の顔から、僅かに血の気が引いた。
朔は初めて、彰人を傷つけたと分かった。それでも言葉を止めることができなかった。自分の方が、何を渡したのかも知らないまま、あまりにも多くを差し出していた。
「俺、あんなふうに誰かに触ってほしいと思ったことなかった。高瀬さんがいいって、自分で決めたつもりだった。離れたくないって言ったことまで、全部知ってるくせに黙ってたんだ」
「すまない」
「謝ってほしいんじゃない」
昨夜も、同じ言葉を口にした。
あの時は、触れられない理由を教えてほしかった。今は、教えられなかった理由が分かってしまった。
「晴希を殺したかもしれない俺が、何も知らずに高瀬さんを好きになって、抱かれて喜んでるのを見たかった?」
「違う」
「それが復讐だったの」
「違う」
「だったら、何で抱いたの」
彰人は答えなかった。
部屋の外で、炊飯器が炊き上がりを知らせる音を鳴らした。いつもの朝なら、彰人が味噌汁をよそい、朔がまだ眠いと言いながらテーブルにつく時刻である。壁の向こうでは、新聞配達のバイクが遠ざかり、どこかの部屋で玄関の扉が閉まった。
今日も、ほかの人間の朝は何事もなく始まっている。
彰人は腕時計へ目を落とした。
それだけの動きに、朔はまた笑いそうになった。
「仕事、行くんだ」
「今日、俺が担当する告別式がある」
「分かってる。行きなよ」
「藤代」
「死んだ人を待たせるわけにはいかないんだろ」
責めるつもりで言ったわけではなかった。彰人の仕事を軽く考えたことはない。朝になれば誰かの死を引き受け、残された人間が別れを終えるまで立ち続ける。その姿を知っているからこそ、彰人を好きになった。
けれど今、自分との話より死者のもとへ行く男を、穏やかな気持ちで送り出すことはできなかった。
「帰ったら話す」
彰人は言った。
「俺が隠していたことも、お前に近づいた理由も、全部話す。今度は何を聞かれても答える」
「今は答えられないのに?」
「順を追って話させてほしい。今は、時間がなさすぎる」
彰人の右手が僅かに上がった。
朔の肩へ触れようとしたのかもしれない。けれど、その手は何にも触れずに下ろされた。
「帰ったら、必ず話す」
ここにいてくれとは言わなかった。
行かないでほしいとも、帰ってくるまで待っていてほしいとも言わない。彰人の中では、仕事を終えてこの部屋へ戻れば、朔がいることが決まっているらしい。
昨日までの朔も、そう思っていた。
彰人が帰ってくるまでに夕食を作り、玄関の音を聞けば、おかえりと言うつもりだった。
「分かった」
朔は答えた。
「帰ったら話そう」
彰人が出ていくと、部屋は急に広くなった。
玄関の扉が閉まったあとも、しばらくは廊下を歩く足音が聞こえていた。やがてエレベーターが動き、低い機械音も止まる。
テーブルには、彰人が用意していた朝食が二人分並んでいた。
焼いた鮭と卵焼き、豆腐の入った味噌汁。炊飯器の中には米が炊けている。彰人は朔の分までいつもどおり用意していたらしい。
朔は椅子に座らなかった。
冷めていく味噌汁の表面を、立ったまま見ていた。
彰人が帰れば、すべてを話すと言った。
初めは晴希の死について調べるためだったが、今は違う。その先を聞けば、彰人が自分を大切にしたことまで、すべて嘘だったわけではないと分かるのかもしれない。復讐で抱いたのではないという言葉を、信じられる理由も見つかる可能性がある。
それでも、ここに残ることはできなかった。
あの手に触れられれば、今度こそ離れられなくなる。
彰人が何を隠し、なぜ近づいたのか分かったあとでさえ、嫌いになんてなれなかった。
晴希を殺したかもしれない自分が、その兄を好きになった。
彰人の中にどれほどの憎しみが残っているのかも分からないのに、優しく抱かれた記憶だけを信じ、また触れてほしいと思っている。
このまま待っていれば、彰人が帰宅した時に、怒るより先に縋ってしまう。
朔は寝室へ戻り、床に落ちていた自分の服へ着替えた。
居間の収納から衣類を出し、黒いリュックサックとスポーツバッグへ詰める。初めてこの部屋へ来た時には、引き出しの半分にも満たなかった荷物である。彰人と暮らすうちにTシャツや下着は僅かに増えていたが、それでもすべてを収めるのに時間はかからなかった。
洗面所からは、薄い青色のコップと白い歯ブラシを持ち出した。
黒いコップだけが残った洗面台は、初めから一人で使うために作られたかのように、何の違和感もなかった。自分のものを隣へ置いていた一か月余りが、最初からなかったことにされていくようだった。
借りていた部屋着は畳んでベッドの上へ置いた。彰人から買い与えられたタオルを持っていくべきか迷い、結局、スポーツバッグの隙間へ入れた。自分のために選ばれた物を残しても、彰人には使い道がない。
朝食には手をつけられなかった。
けれど、彰人が作ったものを、そのまま傷ませることもできない。鮭と卵焼きの皿、味噌汁の椀へ一つずつラップをかける。茶碗の米も一膳ずつ包み、すべて冷蔵庫へ入れた。
スマートフォンを手に取る。彰人とのメッセージを開けば、昨日までの短いやり取りが並んでいた。仕事へ行く。夕食はいらない。遅くなる。分かった。気をつけて帰れ。
その中に、朔を好きだという言葉は一つもなかった。
電源を切り、ポケットへ入れる。
玄関で靴を履き、最後に部屋を振り返った。
この部屋で過ごした時間は、地元を離れてからの四年間よりずっと短い。それなのに、台所のどこに醤油があり、どの棚へ皿を戻し、冷房を何度に設定すれば彰人が何も言わないのかを知っている。彰人が帰ってくる時刻も、風呂上がりに飲む水を冷蔵庫のどこへ入れておけばいいのかも分かる。
自分がこれからどこへ行けばいいのかだけが、分からなかった。
朔は扉を閉め、鍵をかけた。
合鍵は、集合玄関の郵便受けへ入れた。
銀色の鍵が底へ落ち、小さな音を立てた。
彰人が確認を誤ったのは、入社してから初めてというわけではなかった。
五年も同じ仕事をしていれば、供花の名札を並べる順番を間違えたことも、遺族から聞いた時刻を一時間違えて記憶したこともある。ただし、そのどれも新人だった頃の話であり、少なくともここ数年、開式直前に同僚から初歩的な確認漏れを指摘されたことはなかった。
「高瀬さん、返礼品の数、これで合ってますか」
受付横に積まれた箱を前に、入社二年目の後輩が声をかけてきた。
彰人は手元の一覧へ目を落とした。昨夜、参列者が増えるという連絡を受け、用意する数を増やす必要があった。ところが発注した数量は、変更前のままになっている。
このままでは足りない。
「……合っていない。追加分が入っていない」
「倉庫に同じものが残っていたと思います。確認してきます」
「俺が行く」
「高瀬さんは、喪主さんとの最終確認がありますよね。僕が取ってきます」
後輩はそう言うと、返事を待たずに倉庫へ走った。
以前、会葬礼状の名前を間違えたこの後輩へ、分からないまま進められる方が困ると言ったのは彰人である。今日の後輩は、忙しそうな彰人へ声をかけ、間違いを見つけた。
確認を怠ったのは、彰人だった。
戻ってきた後輩へ、彰人は頭を下げた。
「すまない。助かった」
後輩は驚いたように目を見開いたあと、足りない箱を受付の下へ並べた。
「間に合ったので、大丈夫です」
「間に合えば間違いがなくなるわけじゃない。次からは俺の作った一覧でも、今日と同じように確認してくれ」
「はい」
返事には、以前のような怯えがなかった。
それから彰人は、頭を切り替えた。
祭壇の蝋燭に火が入り、僧侶が着座すれば、告別式は決められた時刻に始まる。遺族にとっては一度しかない別れであり、彰人が私生活で何を失いかけていようと関係はない。
参列者の焼香が滞らないよう案内し、出棺の時間を確かめ、火葬場へ向かう車の順番を整える。喪主が棺へ入れる手紙を持ったまま動けずにいると、急かさず、最後まで待った。
仕事をしている間だけは、朝の朔の顔を思い浮かべなかった。
棺が霊柩車へ納められ、遺族を乗せた車が会場を出る。見送りを終えて一礼し、顔を上げた時、空は朝よりも高く、雲のない青に変わっていた。
黒い礼服の背中へ日差しが刺さる。
彰人はようやく、深く息を吐いた。
帰ったら、すべて話す。
墓地で再会した時、記憶を失った朔を利用しようとしたこと。晴希を殺した可能性を疑い、朔の言葉も、見せる表情も、初めのうちはすべて嘘かもしれないと思っていたこと。自分が弟を置いて家を出た罪悪感から目を逸らし、朔だけを憎んできたこと。
隠していた事実を、自分に都合よく言い換えずに話す。
そして、なぜ抱いたのかも答える。
朔が好きだから抱いた。
ほかの男のもとへ行かせたくなくて、自分のそばに留めたかった。朔が自分の名を呼び、離れたくないと言ったことが嬉しかった。知らない男に触れられた痕へ腹を立てたのも、食事を作り、帰りを待ったのも、晴希のためではない。
今度こそ、行動の陰へ隠さずに言葉にする。
それで拒絶されても、朔にはその権利がある。初めから与えるべきだったものを、ようやく返すだけだった。
彰人は更衣室で礼服の上着を脱ぎ、スマートフォンを確かめた。
朔からの連絡はない。
朝の様子を考えれば当然だった。それでも、移動する車の中でも、式が始まる前にも、通知がないことを何度も確かめていた。
『今から帰る』
メッセージを送った。
既読はつかなかった。
帰宅したのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。
集合玄関の郵便受けを開けると、数枚の広告と封書の間に、銀色の鍵が落ちていた。
一目で分かった。
以前、交際していた女性へ渡すつもりで作り、使わないまま引き出しにしまっていた鍵だった。朔を部屋に残して初めて出勤する朝、自由に出入りできるよう手渡したものである。
鍵は、郵便受けの底で冷たくなっていた。
彰人はそれを掴み、階段を上がった。
自宅の扉を開けても、明かりはついていなかった。居間のカーテンは閉められ、朝から動き続けていた冷房の風だけが、誰もいない部屋を冷やしている。
「藤代」
呼んでも返事はない。
テーブルからは、朝食も、その食器も消えていた。
居間の収納を開ける。
朔の服を入れていた引き出しは空だった。壁際に置かれていた黒いリュックサックも、衣類の入ったスポーツバッグもない。洗面所へ行くと、薄い青色のコップと白い歯ブラシが消え、彰人の黒いコップだけが置かれていた。
冷蔵庫を開けると、朝の食事が一つずつラップをかけられて並んでいた。朔は食べなかった。それでも、捨ててはいかなかった。
寝室のベッドには、昨夜朔が着ていた部屋着が畳まれている。
書き置きはなかった。
彰人はスマートフォンを取り出し、朔へ電話をかけた。
呼び出し音は鳴らず、電源が入っていないという案内が流れる。一度切り、もう一度かけても同じだった。
『今、帰った。どこにいる』
『話をしたい。電話に出てくれ』
送ったメッセージには、どちらも既読がつかなかった。
ここにいてくれと言わなかった。
朝の自分が口にした言葉を思い返し、彰人はその事実に気づいた。
帰ったら話すと、一方的に約束しただけだった。朔が帰宅を待っていることを疑わず、自分が何も言わなくても、これまでと同じようにこの部屋にいると思っていた。
昨夜、朔は自分から寝室へ来た。一緒にいたいと言い、キスをねだった。あれほど明確に求められても、彰人は自分の気持ちを少しも返さなかった。
その朔が、何を信じて待てたというのだろう。
彰人は部屋を出た。
朔と初めて待ち合わせた喫茶店は既に閉まっていた。駅の貸しロッカーを端から見ても、どれを以前使っていたのかまでは分からない。駅裏の安いホテルやネットカフェの前を車で通り、歩道を行き交う人影の中へ栗色の髪を探した。
見つからなかった。
日雇い仕事を紹介している会社の名も、朔が以前どのホテルを利用していたのかも知らない。これまで体を売ってきた男たちの名前など、知りたいと思ったことさえなかった。役所から渡された書類は貸倉庫の段ボール箱に入っているが、その住所も、契約に使った連絡先も分からない。
朔が何を食べ、何時に帰り、どこを怪我したかは知っている。
それなのに、部屋を出た朔がどこへ行くのか、彰人には何も思い当たらなかった。
現在の朔を知っているつもりで、その男が彰人と会う前にどこで眠り、困った時に誰を頼り、何を居場所としてきたのかを知ろうとしていなかった。朔の過去から晴希の死だけを探し、今の暮らしを自分の部屋へ移して、それでそばに置いたつもりになっていた。
午後十時を過ぎ、彰人は一度部屋へ戻った。
暗い居間、朔が読んでいた事故の記事は棚に残されていた。地元紙の小さな記事には、川へ落ちた高校生二人のことしか書かれていない。
藤代朔が晴希といた頃、どこで暮らし、二人がどこへ行き、何を話していたのかを、彰人は知らない。
だが、その手掛かりを残しているかもしれない人間に、一人だけ心当たりがあった。
彰人は押し入れを開けた。
上段の奥に、母親から押しつけられたままの段ボール箱がある。晴希の名が油性ペンで書かれ、半年前に受け取った時と同じように、ガムテープで閉じられていた。
捨てられるくらいならと引き取ったくせに、これまで一度も開けられなかった。
弟の生きていた頃を知ることが怖かった。自分の知らない持ち物や、知らない友人の名を見つければ、兄でありながら何も知らなかった事実を認めなければならない。
今は、その中にあるかもしれない僅かな手掛かりへ縋るしかなかった。
彰人は箱を床へ下ろし、台所からカッターナイフを持ってきた。
刃を差し込み、古いテープを切る。
蓋を開けると、畳まれた制服と教科書、何冊かのノートが入っていた。その隙間に、充電器のコードを巻きつけた古いスマートフォンがある。
彰人は、五年ぶりに弟の持ち物へ手を伸ばした。
日が暮れてからも、街には昼間の熱が残っていた。
朔は黒いリュックサックを背負い、スポーツバッグを肩に掛けたまま、駅前の繁華街を歩いていた。朝からほとんど何も食べていない。自動販売機で買った水だけは何度か飲んだが、空腹よりも、頭の奥へ断片的に浮かぶ光景の方が気になった。
一度開いた記憶の奥から、これまで沈んでいたものが次々と浮かび上がってくる。
小学校へ続く坂道。夏休みの朝に鳴っていたラジオ体操の音。夕方になると長い影を落とした歩道橋。商店街の外れにあった、小さなパン屋の赤い日除け。
どれも、どこにあるのかを知っていた。
写真を見ても思い出せなかった町が、今は匂いや音を伴って頭の中に現れる。幼い自分が自転車で細い道を走り、曲がり角で転んで膝を擦りむいたことまで分かった。
その記憶の中に、やがて一人の少年が現れた。
晴希は、初めから痩せていたわけではない。
中学に入った頃には、朔と同じくらいよく食べた。購買で買ったパンを奪い合い、部活動の帰りには小遣いを出し合ってアイスを買った。彰人の話をする時には、面倒そうな顔をしながらも、兄が昔使っていた参考書を勝手に持ち出したことや、子どもの頃にゲームで負けて本気で喧嘩したことを話していた。
両親が離婚してから、晴希は変わった。
顔色が悪くなり、夏服のシャツの中で肩の骨が目立つようになった。昼食を忘れたと言う日が増え、朔がパンを半分渡しても、初めは腹が減っていないと受け取らなかった。
『昨日も母親、帰ってないのか』
『別に。仕事だろ』
『金は』
『あるって』
晴希はいつも、たいしたことではないように笑った。
それでも放っておけず、自分の家へ連れて帰った。夕食を食べさせ、同じ部屋へ布団を敷いた。晴希は礼を言わなかったが、朝になると朔より先に起きて、二人分の食器を洗っていた。
東屋で何を言ったのかも、少しずつ戻ってきた。
前日まで雨が降り続いていた。晴希は、その日も母親が帰ってこないと言った。冷蔵庫には何もなく、生活費も置かれていない。それでも先生には話すなと、彰人にも連絡するなと繰り返した。
『このままにできるわけないだろ』
『お前には関係ない』
『あるよ。俺が先生に話す』
晴希が立ち上がった。
『余計なことしたら、もうお前とも会わない』
『だったら、彰人さんに言う。今、帰ってきてるなら――』
その先は途切れた。
晴希が怒った顔だけが残っている。東屋を出ていく背中を追い、自分も濡れた地面へ足を踏み出した。川の水は濁り、普段より速く流れていた。
濡れた岸の土が崩れた。
水へ落ちたのは、晴希が先だったのか、自分が先だったのか分からない。冷たい流れに全身を呑み込まれ、息ができなくなる。水面の向こうで晴希の顔が見えた。
晴希は必死に手を伸ばしていた。
助けを求めていたのか、自分を助けようとしていたのかは思い出せない。
次に浮かんだのは、白い毛布に包まれ、河原で水を吐いている自分だった。誰かに肩を押さえられながら、晴希の名を呼んでいた。
――俺が殺した。
自分の声が、ようやく記憶の中に戻ってきた。
彰人の言葉ではない。確かに、十七歳の朔が口にしていた。
自分が先生へ話すと言わなければ、晴希は怒らなかった。彰人の名を出さなければ、東屋から出ていかなかった。追いかけなければ、二人で川へ落ちることもなかった。
晴希の腕を掴んだ感触がある。
そのあと、手を放したのかもしれない。
朔は歩道の端で立ち止まった。
車のヘッドライトが、途切れることなく目の前を流れていく。明るい看板も、飲食店から漏れる音楽も、人の話し声も、自分とは関係のない場所で鳴っているように遠かった。
本当に、自分が晴希を殺したのかもしれない。
警察が事故だと判断していても、偶然だったのは岸が崩れたことだけかもしれない。自分が何かを言い、晴希を怒らせ、川へ落ちる原因を作った。最後に掴んだ腕を放した。
それなら彰人が、自分を憎んでいたのも当然だった。
「晴希くん?」
突然、肩を叩かれた。
振り返ると、見覚えのある男が立っていた。彰人の部屋に来る前、二度ほど一緒にホテルへ入ったことがある。名前は聞いた気がするが、思い出せない。向こうも朔を晴希としか呼ばず、本当の名前を尋ねたことはなかった。
「久しぶり。どうしたの、その荷物」
「別に」
「家出?」
男は面白がるように笑い、朔の肩へ腕を回した。
酒を飲んでいるらしく、近づいた息から甘いアルコールの匂いがする。以前なら、その匂いも、腰へ触れた手も気にしなかった。
「泊まるところないなら、今晩俺のところに来る?」
断る理由はないはずだった。
今夜眠る場所が手に入る。食事もさせてもらえるかもしれない。男が満足するように抱かれれば、明日の朝までは外を歩かずに済む。
これまで何度も、同じように夜を越えてきた。
セックスは気持ちよくない。それでも相手が望むところで声を上げ、表情を作り、体を動かせばいい。痛みが残っても、仕事に支障がなければ構わない。朝になれば別れ、また一人に戻るだけだった。
男の指が、Tシャツの上から腰を撫でた。
朔の体が強張った。
嫌だと思った。
この男だからではない。彰人ではない男に触れられることが、嫌だった。
あの夜、彰人は朔の顔を見ていた。作った声を出せば止まり、本当に感じているのかと確かめるように触れた。体の奥まで受け入れても、怖くも、早く終わってほしいとも思わなかった。
自分から、もっと触れてほしいと望んだ。
彰人の正体も目的も知らなかった。あの夜に与えられた優しささえ、何のためだったのか分からない。それでも、ほかの男へ同じものを求めることはできなかった。
「悪いけど、やめとく」
朔は肩へ回された腕を外した。
男の顔から笑みが消えた。
「何で。泊まるとこないんだろ」
「自分で探す」
「前は金もいらないってついてきたじゃん。今さら何、選んでんの?」
「今日は嫌なんだよ」
それだけ言い、離れようとした。
男がスポーツバッグの肩紐を掴んだ。引かれた勢いで体が後ろへ傾き、首元が締まる。
「綺麗な顔してるからって、いい気になるなよ。今まで何でもさせたくせに」
「放せ」
「寝るとこ貸してやるって言ってんだろ。いいからやらせろよ」
肩紐ごと引かれ、男の体へ引き寄せられる。
以前の朔なら、ここまで機嫌を損ねた相手へ逆らわなかったかもしれない。殴られるより、謝ってついていく方が早い。嫌だと思わなければ、何をされても耐えられた。
今は、嫌だと知っている。
朔は肩紐から腕を抜き、スポーツバッグを両手で掴んだ。そのまま男の腹へ強くぶつける。男が呻いて手を緩めた隙にバッグを抱え、走った。
背後から怒鳴る声が聞こえたが、振り返らなかった。
重いスポーツバッグが腿へ当たり、背中のリュックサックが揺れるたび、肩紐が食い込む。人の間を抜け、信号を渡り、明るい駅の構内へ駆け込む。改札の近くまで来たところで、ようやく足を止めた。
男は追ってこなかった。
息を整えながら顔を上げると、頭上に大きな路線図があった。
いくつもの線と駅名が並んでいる。その中の一つの駅名に、目が留まった。
五年前まで暮らしていた町の駅だった。
駅名を見た瞬間、乗るべき路線と、どこで乗り換えれば辿り着くのかが分かった。時刻表を見れば、あと数分でその方面へ向かう終電が出るところだった。
朔は切符を買った。
考える時間はなかった。改札を通り、階段を上がる。ホームに停まっていた電車は、朔が乗り込むと間もなく扉を閉めた。
窓際の席へ座り、足元へ二つの荷物を置く。
電車が動き出した。
明るい駅のホームが後ろへ流れ、やがて窓の外は暗い建物と、途切れながら続く街灯だけになる。黒いガラスには、疲れた顔をした朔が映っていた。
彰人に愛されたと、勘違いした。
あれほど大切に抱かれ、触れるたびに藤代と呼ばれたから、ほかの誰でもない自分を求められているのだと思った。自分も彰人を選び、あの部屋へ帰りたいと願っていいのだと思ってしまった。
その男は、三枝晴希の兄だった。
自分が殺したかもしれない親友を、五年間忘れられずにいた人だった。
知らなかったとはいえ、その兄を焦がれるほど好きになった。正体を隠され、利用されたと分かっても、彰人ではない男に触れられることを嫌だと思うほど、まだ求めている。
どこへ行っても、もう以前の自分には戻れなかった。
電車は夜の町を離れ、暗い郊外へ向かって走り続ける。
朔は窓へ額を預け、流れていく灯りを見た。
五年ぶりに、晴希が死んだ自分の地元へ帰ろうとしていた。
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